今回は第35回、No.71~No.72まで紹介したいと思います。
プロフィールは戦国覇王戦国武将データファイルを参考にしています。
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No.71 『尼子経久』あまご つねひさ (1458~1541)
出雲守護代清定の子。
はじめ守護代となったが、文明十六年(1484)室町幕府の兵に追われ諸所に流浪。
同十八年、富田城を奪略し、次いで因幡以西の山陰諸国を攻略し、山陽道にも侵入。
のち周防の大内氏と対立、次いで配下の毛利元就が大内氏に通じたので、
天文二年(1533)以後は大内・毛利とも対立、交戦した。
また文学・画技にも長じた。
世にいう”戦国時代”は、尼子経久による下克上をもって幕開けと見る説がある。
「勇は項羽、樊カイをも欺き、智は張良、陳平をも恥ずべき程の人」と著される。
経久には下野守義勝という弟があり、兄に劣らず、
「奇謀妙算残る所なく、勇は万夫不当にして忠義」
と出来た人物だったので、
兄弟の良将を慕って、
近隣の諸侯は幕賓となることを望んだという。
八十歳となって嫡男の子晴久(当時は詮久)に家督を譲り、
その後晴久の決断で毛利討伐の軍令が下る。
緻密な作戦をたてていたが、血気の勇将晴久の焦りでせっかくの戦術もむなしく崩壊。
経久は失意のまま八十四歳の高齢をもって没し、これを期に尼子氏は凋落の一途をたどる。
No.72 『片倉景綱』かたくら かげつな (1557~1615)
米沢の成島八幡宮宮司片倉景重の次男。母は本沢刑部真直の女(むすめ)。
父の先妻に男子がいたため神職は継げず、親族の藤田家の番代となった。
のち藤田家に実子ができ、放逐される。
伊達家の重臣・遠藤基信に推挙され輝宗に仕え、徒小姓、
十九歳のときに梵天丸(政宗)の傳役に。
のち刈田白石(宮城県白石市)一万八千石領主となる。
無双では政宗に「小十郎は本陣を守ってオレ!」といわれている。
政宗が右眼球が飛び出るという、奇怪な相貌となって落ちこぼれかけ、
ある時、小十郎は政宗に「独眼竜という言葉をご存知ですか」と訊いた。
政宗が知らぬと首をふると、小十郎は、唐末の勇将李克用の話をし、
「彼も独眼、あなたも独眼。何条、人が人に劣ることがありましょうや。
あなたも独眼竜におなりなされ」
と激励したという。
数日後、政宗は「小十郎、汝この眼玉を刺し潰せ」と眼玉を突き出し、
小十郎は頷き、「片倉小十郎景綱、小刀ヲ以テ衝潰シ奉ツ」たのである。
以降、政宗の引っ込み思案も猜疑の暗い陰も、かげをひそめたという。
次回(最終回)は『大村純忠』『細川忠興』『立花宗茂』(最終号)の予定です。
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