今回は第36回、No.73~No.75まで紹介したいと思います。
ついに最終回となりました。
ラストは一気に3人を紹介です~。
プロフィールは戦国覇王戦国武将データファイルを参考にしています。
誤植による間違いがある可能性があります。
画像をクリックすると大きくなります。
No.73 『大村純忠』おおむら すみただ (1533~1587)
日本最初のキリシタン大名。有馬晴純の次男。
洗礼名ドン・パルトロメウ、号は理専。
天文七年(1538)大村純前の養子となって家督を継いだ。
永禄五年(1562)横瀬浦を開港。翌年受洗。
元亀元年(1570)長崎を開港、南蛮貿易を中心に外交策を推進、
天正十年(1582)大友・有馬氏とともにローマ法王に使節を派遣。
彼の代に、大村氏の勢力は西彼杵半島の全域に及んだ。
現在の、大村湾と外海―五島灘との間に突き出た、
南は長崎市の近くから、
北は佐世保湾口に望む一帯の半島である。
受洗を受けた翌朝、彼は兄からの要請で戦場へ向かうのだが、
その途中、通りがかりにあった戦国大名の戦勝の守護神とされる
麻利支天を
堂もろとも焼き払い、跡に十字架をたてたりした。
最後まで信仰を貫きとおした彼は、天正十五年(1587)病死する。
純忠の死ののち、秀吉が宣教師追放令を出し、
彼の死とともにキリシタンは冬の時代に入るのだった。
No.74 『細川忠興』ほそかわ ただおき (1563~1645)
細川藤孝(幽斎)の子。通称与一郎。号は三斎。丹後宮津城主。
明智光秀の女、玉と結婚。
天正十年(1582)本能寺の変後、藤孝より家督を継ぐ。
文禄元年(1592)朝鮮役に参加。関ヶ原役では徳川方に属し、豊前に加増転封。
大坂の陣でも徳川方に参陣。寛永九年(1632)子の忠利のとき肥後に転封。
隠居先の八代にて八十三歳で没す。
信長の佩刀を捧持していた忠興が、その刀の柄についている
九曜の飾り物に魅せられ、
さっそくこれを帷子(単重の着物)の紋にして
信長の前へ出ると
「よい紋ではないか」と誉められたことから、 細川家の家紋となるきっかけとなったという。
妻は明智光秀の三女で名は玉、たぐいまれな美女であった。
本能寺の変後、秀吉に属した忠興によりやむなく幽閉されるが、のち復縁。
その後キリスト教に受洗しガラシャ。
関ヶ原の合戦時には、石田光成方の人質になることを拒み、命を絶った。享年38。
No.75(最終号) 『立花宗茂』たちばな むねしげ (1569~1642)
高橋紹運の長子。立花道雪の養子となり立花家を継ぐ。
天正十五年(1587)筑後四郡十三万石、柳川城主となる。
関ヶ原役には西軍に属して所領を奪われたが、
江戸で徳川家康・秀忠の目にとまり、奥州棚倉一万石で封じられる。
大坂の陣では、秀忠の軍事顧問として参陣。
武功を認められ、元和六年(1620)柳川城主にかえり咲く。
戦国無双2から出ている、立花ギン千代のお婿さんです。
柳川移転後別居するなど不仲だったとか…、そうじゃなかったとか。(どっちだよ)
もともとボンボン育ちだった宗茂は、立花道雪のもとスパルタ教育で鍛えられ、
合戦のたびにその勇名はあがっていった。
秀吉の小田原城攻めの命令を受けて、全国から諸大名が京都にのぼってきた時
秀吉はわざわざ家康を呼びその麾下の本田忠勝を召しだして宗茂にひきあわせ
「東国にかくれなき本多平八に、西国無双の立花宗茂なるぞ」と紹介したという。
関ヶ原の敗戦後、九州柳川へ落ちていくのだが、
このときやはり西軍に味方して、壮烈な敵中突破で戦場を脱出し、
七、八十騎が残っているに過ぎない島津勢と心合わせて九州へ下ったという。
(島津義弘は宗茂の父高橋紹運の仇である)
福岡県柳川市にある三柱(みはしら)神社では、
宗茂・ギン千代姫・道雪の三柱を祀っている。
ちなみにギンちゃんは、関ヶ原の後、宗茂が改易された2年後この世を去るのです。
これで戦国覇王のフィギュア紹介もついに終わりです。
最後なのでちょっと詳しく、ながめになっちゃいました。
最初からこれぐらいやっとけ~! とか言いっこなしです。
楽しみにしていた方…もどれぐらい居るのかはわかりませんが
長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
いままで戦国覇王の武将フィギュアとプロフィールをのせてきました。
しかし、戦国覇王はこれが全てではないんですね。
他にも、「戦国150年ニュース」と題して、
年表形式で戦国時代の重要事件を紹介していたり、
「戦国百科」という合戦・城等々、もうちょっと
詳しくつっこんでいる読み物などもあったりします。
これらもせっかくなのでまとめてみたいなぁ~…
などと考えております。
正直そうしないと、歴史ネタがなくなっちゃいそうなのです。
ということで、戦国覇王による戦国の記事はまだ続けていく予定です。
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