関ヶ原の戦いとは何か
伏見城の陥落と東西の動静(後編)
東西の密かな交渉は続く。
十七日には、毛利氏が結果的に関ヶ原で
軍を動かさなかった決定的要因が示されている。
吉川広家はあくまで家康に組するため、そのとりなしを黒田長政に頼んでいた。
長政から家康へのとりなしが行われ、八月八日づけの家康から長政あての文書、
そして十七日づけの長政から広家あての文書が残されているが、
その中で輝元が西軍の総帥に祭り上げられたのは、
安国寺恵瓊に踊らされたものだということを家康に納得してもらった、
という証明であり、毛利氏の動きを決定づけるものとなった。
そして八月十九日、家康の口上を携えた使者
村越直吉が東軍の待つ清州城に到着している。
清州城内ではなかなか家康からの指令がないので、しびれを切らせており、
使者村越直吉に「なぜ家康は出馬しないのか」と詰め寄った。
しかし、直吉の読み上げた口上は
「各の手だしなく候へ共、御出馬なく候……」というものであり、
家康の出馬があるまでは自粛していたことがかえって戦う気があるのか
疑われていたことを知り、城中の武将たちは驚いた。
家康にすれば、正則ら秀吉子飼いの武将たちの忠誠を試す意味があったことになる。
清州城に詰めていた武将たちは翌二十日評定を開き、部署を定めた。
先鋒隊としては忠誠心を問われた以上、
点数を稼いでおこうという思惑もあったであろう。
福島正則ら先鋒隊三万五千が木曾川を渡り、
竹ヶ鼻城を落としたのが二十二日であり、その勢いで岐阜城へ向かった。
岐阜城は織田秀信の居城であり、
三成らは東軍を三河、尾張付近で食い止めることができないとわかると、
岐阜、大垣で東軍の西上を阻止し、伊勢の勢力で背後から突く、
という作戦を考えていたという。
そのためにも、岐阜城は大事な砦であった。
岐阜城の総攻撃は二十三日に開始されたが、城は一日で落ち、
織田秀信は自刃しようとしたが家臣に説得され、
そのまま城を出て、剃髪し高野山へ入った。
西軍としては、頼みの綱であった岐阜城が
たった一日で落ちたことはまったくの計算外であった。
東軍は二十四日、それまで宇都宮に置かれていた家康の三男秀忠が
三万の兵を率いて中山道を通り、美濃へ向かった。
伊勢ではこの二十四日から二十五日にかけて大きな戦いが繰り広げられている。
伊勢は重要視され、西軍は八月五日には椋本まで兵を進めていた。
実際に安濃津城で戦いが始まったのは二十四日の早朝で、
安濃津城主富田信高に伊勢上野城主分部光嘉の軍を加えた千七百余りに対し、
西軍三万余りの大軍で攻め、二十四日、二十五日にわたって激戦となった。
信高は二十六日早朝、高野山の木食(もくじき)上人に勧められて開城し、
織田秀信同様、剃髪して高野山に入った。
戦後処理で信高はこのときの奮戦が認められ、加増されている。
西軍は勢いに乗り、そのまま伊勢松坂城の古田重勝を降伏させている。
八月二十六日には三成が大垣城を出て佐和山に戻っている。
岐阜城が陥落したため、東軍がむしろ佐和山城を
攻めるかもしれないと考えたからである。
三成がかなり動揺していたことがうかがえる。
東西の決戦は迫っていた。
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