家康の進軍から関ヶ原の戦いへ(前編)

2008年6月23日月曜日

戦国百科

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関ヶ原の戦いとは何か

家康の進軍から関ヶ原の戦いへ(前編)




徳川家康は九月一日、三万の兵を率いて江戸を発った。
当初八月二十六日の予定が延びたのである。
その日は暦の上で「西ふさがり」の悪日であったが、
「すでにふさがっている西を明けに行くのだからいい」
と言って出陣したという。

家康は翌日には神奈川、三日に小田原に泊っているが、その同じ日、
西軍は関ヶ原南西の山中村に布陣している。
西軍は主力部隊がその時点でまだ伊勢の攻略に手間取っていた。
西軍の副将宇喜多秀家は同日、八千の兵を率いて大垣城に至った。
石田三成は八日に大垣城に入っている。

その同じ日、家康は白須賀にいた。
そこで、小早川秀秋の使者が家康を訪ねている。
この使者とどのようなことを交わしたかの記録はないが、
後に秀秋が寝返る伏線になったと思われる。

一方家康が江戸を発った一日、
中山道を進軍した徳川秀忠軍は軽井沢に進み、翌二日には小諸にいた。
中山道から大きく入った位置であり、
上田城の真田昌幸・幸村を開城させるつもりでいたと思われる。
秀忠の軍には昌幸の長男信之がおり、信之を介して降伏を促したが、
昌幸は応じず、六日から上田城攻めが開始された。
しかし有効な手がうてないまま、十日には上田城攻めを中止し、美濃へむかった。
このことで秀忠は関ヶ原への遅参という汚点を残すことになる。

秀忠が上田城攻めをあきらめて美濃へ向かった十日、
家康は熱田に至り、翌日には清州に入っている。
清州で二日逗留したが、秀忠軍を待ったためとも考えられる。
実際は家康が岐阜に到着した十三日、秀忠はまだ下諏訪にいたのである。

そしてその日は、大津城の攻防戦が行われている。
大津城は京極高次の居城であるが、
七日から毛利元康を大将とする一万五千の軍勢に包囲されていた。
猛攻を加えられた結果、大津城は本丸を残すだけとなった。
また同日、細川幽斎の籠城していた丹後田辺城が開城した。
幽斎は歌道の達人であり、古今伝授の途絶えることを心配した
後陽成天皇が勅使を派遣したためであった。

十四日、運命の日の前日、家康は岐阜城を出て岡山に布陣、
一方の石田三成は大垣城から関ヶ原に移動している。
同日、決戦の鍵を握ることになる小早川秀秋は直接松尾山に陣を敷いた。

東西各陣ではそれぞれ評定が行われた。
東軍の家康の陣では、大垣城を攻めるべしとするものと
大垣城をそのままにして直接、西軍の本拠地となっている大坂城を攻める、
という二つの意見に分かれた。
家康は城攻めよりも野戦を得意としており、
三成をおびきだして野戦に持ち込む方策を考えていた。
そこで、西軍に評定の結果が漏れるのを承知で、
あえて「佐和山城を落とし、大坂へ向かう」と決めただけであったといわれる。

東軍の評定はやはり西軍に漏れた。
あるいは故意に漏らしたものかもしれない。
その日夕方西軍は、島左近の率いる兵五百が岡山の陣に近い
杭瀬川を渡り、向こう岸に放火した。
東軍を挑発したのである。
その挑発に中村一栄、有馬豊氏が乗ってしまい、入り乱れての戦いになった。
これがいわば関ヶ原本戦の前哨戦である。

その後、西軍でも評定が持たれたが、
ここでもいますぐ家康を討つべきとする島津義弘の意見と
毛利輝元および秀頼の出馬を待つべき、との意見が分かれた。
そのうち、東軍の「故意に流した」情報がもたらされる。
それを聞いた三成の「関ヶ原で食い止めないと大変なことになる」
という一言で軍議は決してしまった。

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