関ヶ原の戦いとは何か
家康の進軍から関ヶ原の戦いへ(後編)
明けて十五日、運命の関ヶ原は早朝から霧に包まれていた。
東西各部隊の布陣が整ったのは午前六時ごろであり、
戦闘が開始されたのが霧の晴れた午前八時ごろであった。
そのときの西軍の戦力は小早川秀秋隊の最大一万五千を含めると総勢約八万四千、
対する東軍は中山道を進軍した秀忠の率いる三万八千が
到着しないままではあったが、七万四千の兵力であった。
この日の先陣は福島正則と決められていた。
しかし、先陣につけられた家康の四男忠吉と
補佐役の井伊直政には不満であった。
「徳川の戦いであるのに、譜代が先陣をつとめられないのか」
といった声や、福島ら豊臣恩顧の大名が以後
権限を持つようになるのを懸念する声もあり、
先陣に忠吉を送り込んだわけであるが、
結果的に忠吉隊数名が一番前に出る形になり、
鉄砲を撃ち掛けそれを見た正則の号令で決戦の火蓋が切られたのである。
霧が晴れるまでは、どちらが敵か味方かすら区別がつかない状況であった。
そのため特別に戦闘作戦などはなく、
とりあえずは目の前にいる敵と戦う、というありさまであった。
二時間余りにわたって、一進一退の攻防が繰り広げられた。
しかし、西軍は最初の時点で毛利勢、小早川勢、
島津勢はまったく動いていない。
実際に稼働していたのは約三万五千ほどであったが、善戦しており、
桃配山から陣馬野に陣を移していた家康をいらいらさせたほどであり、
もしも全軍が動いていたら形勢は圧倒的に西軍に有利であったろう。
家康が陣を移動したのが十時ごろとされる。
十一時、三成は総攻撃の狼煙を上げさせた。
長束正家はこれを見て毛利軍に出馬を促したが
吉川広家に押さえられ、秀元はついに動かなかった。
そして同じころ、戦いの行方を左右した小早川秀秋は
この時点でいまだ態度が決まらずにいた。
三成や吉継からも何度も急使が遣わされている。
そして家康の陣から発砲されるに至り、ついに裏切りを決断。
松尾山を降り、大谷吉継隊を攻めた。
吉継らにはある程度予想のことであったが、
されに加えて全く予期しない事態になった。
大谷隊のすぐ近くにいた脇坂、朽木、小川、赤座の四隊が
突然大谷隊を急襲したのである。
大谷吉継は自刃し、西軍は一気に崩れた。
三成は笹尾山本陣を出て伊吹山へ脱出した。
そしてそのままうごかずにいた島津隊は周囲を東軍に囲まれる形になり、
敵中突破という強行軍にでて、半数以上の兵を失いながらも伊勢路へ脱出していった。
午後二時ごろ、島津隊の敵中突破を最後に列島を二分した戦いは終わった。
ここで、東北の動きを付け加えておくが、
関ヶ原で東西が激突した十五日から東北でも東西の戦いが繰り広げられた。
なかでも山形の長谷堂城の戦いでは、最上義光の重臣、
鮭延秀綱の立てこもる城を上杉の重臣直江兼続が攻めたが、
城はついに落ちないまま、関ヶ原での東軍勝利の報が上杉景勝に届けられた。
それが九月三十日のことであり、長谷堂城の戦いは十月一日にようやく終結した。
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