応仁の乱~大坂夏の陣までのおよそ150年間を戦国時代と想定し
年代順に年表と記事を掲載。
重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
※マークをつけ、記事にしています。
間違いがあったらごめんなさい。
1586年 天正14年
天皇 正親町→後陽成 将軍 不在
7月27日 島津方が高橋紹運(鎮種)の岩屋城をおとす。紹運が自害。
9月9日 滝川一益没。
10月4日 毛利輝元が高橋元種の支城小倉城を攻略する。
10月9日 豊臣秀長が国中に京枡を使用させる。
10月27日 家康が、大坂城で秀吉に臣従を誓う。※
11月7日 正親町天皇譲位。後陽成天皇践祚。(11月25日即位礼)※
11月15日 秀吉の私戦停止令(関東惣無事令)が家康から北条氏に伝達される。
このころ、利休好みの茶室といわれる妙喜庵待庵が完成する。
※家康、秀吉に臣従の礼
遠江浜松城の徳川家康が、豊臣秀吉の居城大坂城に出頭した。
多くの大名をしたがえ、表座敷上段に座る秀吉の前で
家康はひれ伏し、臣従を誓った。
ここに豊臣政権にとって東方の脅威だった家康との対立関係に
終止符がうたれ、両者の協力体制が実現した。
※正親町天皇が譲位
戦国時代の天皇の代替わりは死去によるもので、譲位によるものはなかった。
それは朝廷の財政窮乏により即位礼などの儀式が挙行できなかったためで、
譲位は正親町(おおぎまち)天皇の宿願だった。
孫の後陽成(ごようぜい)天皇の即位礼が挙行されたのは25日。
宿願の譲位を秀吉がかなえたのである。
1587年 天正15年
天皇 後陽成 将軍 不在
5月6日 島津義久が剃髪し、5月8日川内の泰平寺で秀吉に降伏する。
5月23日 大友宗麟没。
6月11日 秀吉が博多町の再興を命じる。※
6月15日 秀吉が対馬の宗義調に朝鮮国王を
来日させるための使者派遣を命じる。
6月19日 秀吉がバテレン追放令をだす。
8月 細川忠興の妻玉が授洗し、ガラシャを名乗る。※
9月13日 聚楽第が完成し、秀吉が大坂城から移る。
10月1日 秀吉が京都北野で大茶会を催す。
※秀吉、博多の再興に着手
九州を制圧したのち、秀吉は博多町の復興を命じた。
翌12日には石田三成、小西行長、長束(なつか)正家ら5人が町割奉行に、
その配下として30人が下奉行に任命された。
朝鮮侵略をもくろむ秀吉は、博多を兵站基地とするため、
直轄領としてその復興をくわだてたのだった。
※忠興の妻、玉が運命の入信
玉は明智光秀の娘で、織田信長の命で細川藤孝の嫡男忠興に輿入れした。
本能寺の変後は”逆臣の娘”という身上から、夫忠興の監視が厳しく、
玉は不自由な生活を強いられたという。
そのころ、キリスト教に関心をおぼえ入信した。
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