三成の処刑と戦後処理の意味(後編)

2008年7月2日水曜日

戦国百科

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関ヶ原の戦いとは何か

三成の処刑と戦後処理の意味(後編)



家康は九月二十日、大津城に入り、二十六日まで止まっている。
その間に三成らが捕らえられ、二十四日には大坂城西の丸に止まっていた
毛利輝元が退去し、木津に移った。

二十六日に大津城を出た家康は、淀城に入り、翌日には大坂城に入った。
本丸で秀頼と会見し、すぐに西の丸に移る。
上杉攻めのため大坂城を出てから実に百日ぶりであった。
この間に家康の立場が大きく変わったことはいうまでもない。
誰がみても、家康の政権基盤が着々と整備されつつあるのがわかった。

家康が大坂城に戻って真っ先に手をつけた仕事は、
関ヶ原に参戦した諸大名の勲功を調査することであった。
その任にあたったのが井伊直政、本多忠勝、榊原康政、本多正信、
大久保忠隣、徳永寿昌の六名である。

三十日には池田輝政に命じて水口城を攻めており、城主長束正家が自害した。

さらに同日、会津の上杉景勝の元に、
東軍勝利の報がもたらされているのは前述した。
実に半月遅れであり、まだ東北は戦乱の最中であった。

そしてこのときから、
後年に至るまで屈辱を受けることになるのは毛利氏であった。

毛利輝元は十月十日づけでそれまでの七か国百二十万石を没収され、
周防・長門三十六万石が与えられた。
当初、増田長盛のように所領を没収しようとしたが、
それはかつて吉川広家と交わした約束と違っていたのである。
広家の懇願により領地没収は免れたが、
輝元は失意のあまり出家し、無言の抗議をしたのであった。

十月十五日、諸大名に対する論功行賞が発表された。
それによると、西軍に組した大名で改易された家は八十八家、
没収した石高は四百十六万千六十四石であり、
減封された家は毛利氏を含め五家、二百十六万三千百十石であるらから、
没収した石高は併せて九十三家、六百三十二万四千百七十四石
という膨大な数であった。

家康はこれらの土地を自分の思うとおりに配分していくことができた。
まず、自らの領地関東の二百五十万石を約四百万石に増やした。
この石高は他の大名と大きくかけ離れており、
圧倒的な財力を背景にして、それまでの相対的な実力者から、
完全に他の大名を圧倒する立場になったのである。

さらに、いわゆる徳川家子飼いの譜代大名をふやし、
関東、東海、畿内に領地を与え、
徳川の基礎を盤石たらしめることに腐心している。
加えて東軍に味方した大名に加増しているが、その大部分が加増転封であり、
その範囲は関東、畿内に止まらず、広く東北から中国、九州にまで及んでいる。
その目的として、豊臣家に従ってはいるが関ヶ原では家康についていた者、
いわゆる外様大名を遠くの地へ追いやっているのが特色であり、
このことは江戸時代を通じて幕府の統治の基礎となっている。
このおりの大名の転封による出費費用は大きく、大名の財力をそぐ結果となった。

以後江戸幕府の大名政策の基礎としての
「大名の鉢植え」を可能ならしめたことも重要である。
この時点で、いまだ処遇が決まらなかったのは島津、上杉両家だけであった。
のちに上杉家は会津百二十万石を没収、米沢三十万石へ移封され、
島津氏は所領安堵となった。

関ヶ原の戦いは全国の大名を巻き込み、
いたるところで戦いが繰り広げられた。
この東西を分けた戦いは結果的に徳川氏、つまり東の勝利による、
東国を中心とした政権確立へのターニングポイントであった。

この三年後、豊臣家を残しながらも、
家康は「征夷大将軍」となり、江戸に幕府を開く。
これは鎌倉幕府開設以来の東国政権であり、
長期に渡った畿内を中心とした政権地図を塗り替える、
日本史上の重要な合戦であったといえよう。

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