慶長15年~慶長16年

2008年8月12日火曜日

戦国150年ニュース

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応仁の乱~大坂夏の陣までのおよそ150年間を戦国時代と想定し
年代順に年表と記事を掲載。

重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
マークをつけ、記事にしています。

間違いがあったらごめんなさい。


1610年  慶長15年

天皇 後陽成  将軍 徳川秀忠



1月9日   徳川家康が諸大名に名古屋城築城を命じる。

2月24日   長谷川等伯没。

閏2月2日  僕府が春日山藩主一族の抗争を採決し、堀忠俊を改易、
        家康6男松平忠輝を海津藩より移す。

6月13日   京都の商人田中勝介が、ノビスパニア(メキシコ)にむけて
        浦賀を出航。(日本人初の太平洋横断)

7月     家康がシャム(タイ)国王に書簡を送り、
        鉄砲・硝石を積載した船来航の知らせに謝意をあらわす。

8月8日   琉球王尚寧がこの日駿府で家康に、
        28日に江戸で秀忠に拝謁する。

8月20日   細川藤孝(幽斎)が没する。

9月     古田織部が将軍秀忠に台子の茶を伝授する。




※名護屋城築城に諸大名が出発

名護屋城普請の助役を命じられた諸大名が大御所徳川家康と
将軍秀忠に暇乞いをし、駿府から名古屋にむけて次々と出発した。
前年1月、家康は9男義直に与えた清州城を巡視し、地形上、
同城が水攻めに弱いと考え、新城地に旧那古野城の地を選んだ。
そして新城普請手伝いに西国外様大名ら20家を指名していた。



※日本人初の太平洋横断

ノビスパニア(メキシコ)との貿易をのぞみ、
家康が派遣した商人田中勝介らは、日本人初の太平洋横断に成功した。
翌年5月1日、ノビスパニアからの初の遣日使節、
セバスティアン・ビスカイノの船で浦賀に帰ってくる。
ただし、ビスカイノの主任務は日本近くにあると信じられていた
金銀島の探検であり、肝心の貿易問題は進展しなかった。




1611年  慶長16年

天皇 後陽成、後水尾  将軍 徳川秀忠



1月     佐賀藩主鍋島勝茂が領内の検地を行い、
        家臣の知行の十分の三を返納させる。

3月27日   後陽成天皇が政仁親王(後水尾天皇)に譲位し、
        後花園天皇以来の院政を復活。

3月28日   徳川家康が二条城で豊臣秀頼と対面する。

4月12日   北国・畿内・西国などの在京の諸大名が、
        幕府が制定した法令3ヶ条に対する誓紙を提出。

7月15日   ポルトガル船の通商回復の要請に応え、
        この日、家康側近がマカオ知事に返書を送る。

8月21日   会津地方に大地震が発生し、若松城が半倒壊する。

10月28日  三陸地方に大地震、大津波により仙台領で死者1783人。

この年、角倉了以が高瀬川開削工事を起工。(1614年完成)





※秀頼、ついに上洛する

1605年に家康は、豊臣秀頼(秀吉と淀殿の子、家康の孫千姫を妻とする)に
新将軍秀忠との対面のため上洛要請をし、淀殿の拒否にあって失敗したあと
しばらくはこの件をもちださずにいた。
しかし、この年3月20日、淀殿の叔父にあたる
織田有楽斎(うらくさい)を使者にたて、正式に上洛を申し入れた。
2度目の要請拒否の場合、家康は豊臣家に対し、開戦も辞さない
後づもりだったと推測するむきもある。



※22家の大名が家康に誓約書

法令3ヶ条の第一条は源頼朝以来の武家の法を守り、
将軍家の出した法令を遵守する。
第二条は法度や上意にそむいた者を領内に隠しおかない。
第三条は家中の侍・奉公人から反逆者・殺害人が出た場合は、
そのむね届け、たがいに召しかかえない。
と規定されていた。
つまり、幕府の命にしたがうという誓約書だった。








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