年代順に年表と記事を掲載。
重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
※マークをつけ、記事にしています。
間違いがあったらごめんなさい。
1612年 慶長17年
天皇 後水尾 将軍 徳川秀忠
1月26日 亀井これ矩没。
3月5日 最上義光が北楯大学利長に新堰(北楯大学堰)を開削させる。
7月21日完成。※
3月21日 本多正純家臣、キリシタン岡本大八が火刑に処される。
3月21日 幕府が京都所司代板倉勝重に、
キリスト教禁止および南蛮寺破却を命じる。※
4月13日 宮本武蔵が佐々木小次郎と船島で決闘。
6月28日 幕府が、かぶき者による大番組頭芝山正次殺害を機に
江戸市中に関を設けて逮捕に乗り出す。
この年、駿府の銀座を江戸に移す。
この年、駿府城奥女中のおたあ(ジュリア)が伊豆大島に流される。
※北楯大学堰が完成
立谷沢川から取水し、庄内平野へと流れを引く堰(山形県立川町)が
7月21日に完成し、杭打ちが行われた。
堰は、工事の担当者である北楯大学利長(きただてだいがくとしなが)の
名をとって北楯大学堰と呼ばれた。
この難工事の完成を喜ぶ最上義光(よしあき)は、
「庄内末世の重宝」との賞賛を利長に送っている。
この開削により、新たに水田が開発され、新しい村がいくつもできたといわれる。
※幕府、はじめて禁教をふれる
キリシタン大名有馬晴信を欺いて、賄賂をまきあげた
岡本大八が処刑されたこの日徳川家康は京都所司代板倉勝重に命じて、
キリシタン摘発に乗り出し、禁教をふれた。
京都だけでなく、江戸・駿府・長崎など重要な幕府直轄都市でも
信者の摘発が開始された。
1613年 慶長18年
天皇 後水尾 将軍 徳川秀忠
4月25日 大久保長安没。※
5月5日 徳川家康が修験道当山派と本山派の相論に裁決を下す。
8月4日 イギリス東インド会社貿易船隊司令官が、
家康にイギリス国王の国書を提出。
8月10日 幕府が鉄砲洲向島(のちの佃島)の漁民に
江戸湾での漁業権を与える。
8月28日 家康がイギリス国王に通商を許可する返書と金屏風を贈る。
9月15日 伊達政宗の遣欧使節支倉常長一行が月ノ浦を出航。※
12月23日 三陸地方に大地震、大津波により仙台領で死者1783人。
この年、家康が南光坊天海を日光山貫主に任命する。
※代官大久保長安死去
代官頭大久保長安の死の数日後、突然、家康から葬儀の中止が命じられた。
長安は鉱山開発で飛躍的な増産に成功しており、その際に、
ノビスパニア(メキシコ)で導入されていたアマルガム法を駆使したらしい。
これがキリシタンと密接なつながりをもち、
不正蓄財した資金と幅広い人脈でもって幕府転覆をはかったとされた。
膨大な遺産は没収され、一族も処刑された。
※支倉常長、政宗の名で欧州へ
支倉常長(はせくらつねなが)らは、スペイン国王フェリーペ3世や
ローマ教皇に謁見するが目的を果たせなかった。
伊達政宗が国王と教皇にあてた信書は、宣教師の派遣と、
当時スペイン領であったノビスパニア(メキシコ)との通商を望むものだった。
しかし、常長のノビスパニア到着以前に、幕府がキリシタン禁教令を
発したことはすでに伝わっており、宣教師派遣も通商も、ともに拒絶された。
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