1467年 応仁1年

2007年6月22日金曜日

戦国150年ニュース

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さてさて、今回は「戦国150年ニュース」として 
戦国時代をざっと、ちゃちゃっと振り返ってみちゃったりなんかして
 という記事でございます。 

戦国覇王の戦国150年ニュースをまとめてみます。 全75回の予定です。

 これは…つまんないかもしれません。 
「戦国百科」としてもっと詳しくつっこんだものも記事にするので
 楽しみたい人はそちらに期待してくださいませ。
 私がお勉強したいだけです。ハイ。  

応仁の乱~大坂夏の陣までのおよそ150年間を戦国時代と想定し 年代順に年表と記事を掲載。
 重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは マークをつけ、記事にしています。  
間違いがあったらごめんなさい。

  1467年  応仁1年 
  天皇 後土御門
  将軍 足利義政

1月8日   山名宗全の女婿の斯波義廉が管領となる。
         (当管領の畠山政長は罷免される)
 1月15日   山名宗全が将軍足利義政の実弟で養嗣子の足利義視を 
        室町第に移住させ、義視の擁立を画策する細川勝元の与党を牽制。
 1月18日   応仁・文明の乱の前哨戦となる御霊の森の戦い勃発。  
1月23日   宗全の与党で固められた幕府が、興福寺に畠山政長の追捕を命じる。 
3月3日   山名、細川両軍が京都で小競り合いをする。
 3月5日   文正を改め、応仁と改元。  
5月10日   勝元に庇護された赤松政則の兵が、播磨に乱入する。
 5月26日   細川方(東軍)と山名方(西軍)の両軍が京都で激突。          (応仁・文明の乱の勃発)
 5月28日   将軍義政が東西両軍に停戦を命じる。
 6月3日   牙旗(将軍旗)が勝元に授けられる。
 6月8日   義視が征討軍(東軍)の大将となって出陣する。
 6月11日   京都市街のうち18町余が戦火で消失する。
 8月23日   周防山口の大内政弘が上洛をとげ、東寺に陣す。
 9月1日   東軍の武田基綱(信賢の弟)勢と西軍の畠山義就が等持寺で戦う。

  ※御霊(ごりょう)の森の戦い  
管領を罷免された畠山政長が、屋形(万里小路邸)に放火して 
上御霊社(かみごりょうしゃ)の森に布陣したのにともない、
 これと家督を争う畠山義就は、この日の申の刻(午後4時ごろ)に 上御霊へ攻め寄せると、
ただちに陣所へ放火して合戦を挑んだ。 
戦闘は夜を徹して行われ、寅の刻(午前4時)には終息した。 
政長が逃亡して義就が勝利を得、都の平穏はかろうじて保たれたものの、 
以後、義就を支援する宗全と政長が頼りにする勝元との対立が激化する。

  ※応仁の乱の勃発  
正月の政変や御霊の森の戦いでは、ひたすら自重していた感のある 細川勝元の与党が、
5月に入って積極的な軍事行動を展開するにいたった。 
土岐政康が伊勢、斯波義敏の兵が尾張と遠江、赤松政則が播磨へと、 それぞれ乱入したのである。 
この一方で、16日には摂津の土豪の池田充正が馬上12騎に 野武士1000人余を率いて
上洛をとげるなど、細川被官の京都集結も一段と進んだ。
 このため、危機感をつのらせた宗全は17日と20日の両日、
畠山義就、斯波義廉、 土岐成頼、一色義直らと軍議をめぐらし、細川方の攻勢に備えている。
 戦端は26日の早朝に開かれたが、先手をとったのは、 さきに戦備を整えていた細川方であった。
 室町第の四足門の正面に位置する山名方の一色義直邸に奇襲をかけ、
 義直を宗全の拠る山名邸へと遁走させている。  
このとき細川方は、京極持清、武田信賢、畠山政長、赤松政則、 細川成之勢で編成され、
室町殿(御所)をもって城構えとし、 ここから勝元の細川邸(北小路町)にかけて
陣を敷いたところから、 「東方」(東軍)と号し、
対する山名方は、宗全の邸宅のある堀切小路・大路を 城構えとして「西方」(西軍)と号している。
 また両軍の兵力は細川方が16万1500余、山名方が11万6000余であった。(応仁記) 
しめて27万7500余が当地(上京)に展開したことになる。

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