戦国百科 群雄割拠の時代その1

2007年6月23日土曜日

戦国百科

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戦国覇王の「戦国百科」をもとに戦国時代をお勉強の記事です。

 戦国150年ニュースよりは読みごたえがあると思います…。 
すごくなが~い間ネタになりそうなので、安心です。
 その分なが~い文章なので(写真も使えそうにないし) 疲れちゃったらごめんなさい。 
間違いがあったりしたらそれもごめんなさい。 

ではでは、まず今回から戦国時代を全3回にわたって振り返ってみましょ。

  実力がすべての戦国時代 群雄割拠の時代から信長の登場で全国統一へ 
実力ある者が上位の者を倒す「下克上」 
応仁の乱以降の戦国時代はまさに下克上の時代だった― 

  第1回 室町幕府の衰退と戦国の関東・東海地方 
  室町幕府の衰えと応仁の乱 幕府の支配力が低下し多発する一揆 

室町幕府は全国の有力守護による連合政権の色彩が強く、 各地の守護大名に対する強い統率力がなかった。 
十五世紀に入ると、有力守護大名の反乱と一揆の頻発に悩まされ このような情勢の下で失政や腐敗が重なり、幕府の支配力は著しく低下した。 
各地で相続争いが頻発するなか、都でも将軍家、管領畠山・斯波両家の 家督相続問題に端を発した争いが起こった。
この争いは、細川勝元(東軍)、山名持豊(西軍)を総帥とする 二大陣営に分裂し、国中を巻き込む内乱へと拡大した。 
この争いを応仁の乱と呼ぶ。

 1473年に山名持豊・細川勝元が相次いで病没し、やがて終息を向かえる。 
11年にも及ぶ争いによって、京都は荒廃し幕府の威信は地に落ちた。 
このたえまない戦乱から身を守る手段として、 農民たちは村落共同体という強い団結力をもつ集団を作り上げた。 
また、地方の地頭、荘官らは土着し、在地領主として力を蓄えていった。

 文明十七年(1485)山城国南部で国人が中心となった大規模な一揆が起こる。
 畠山政長・義就両軍が、山城南部に大軍を集結し対戦。
 この戦乱による被害に耐えかねた国人衆三十六人が、農民らの支援を受けて蜂起。 
両軍に退陣を迫って実現にこぎつけた。
 以来八年間にわたって守護の支配を排除、国一揆による自治的支配が行われた。

 長享二年(1488)には「百姓ノ持チタル国」が実現した。
 幕府の軍役賦課に反対する加賀国の土豪・農民を、一向宗門徒の寺院勢力が組織化。 
守護富樫政親を高尾城(石川県金沢市)に包囲し、自刃させたのである。
 「土民」の蜂起が幕府の守護を滅亡させ、一向宗門徒の加賀一国支配を 百年間にわたって出現させたのであった。

  早雲の登場と関東 風雲児早雲が戦国の世を開く 
北条早雲(伊勢宗瑞)が、今川氏配下の一武将から独立、 侵略者として国持ち大名の第一歩をしるす。 
それは、実力さえあれば成り上がれるという、下克上の戦国乱世を告げることだった。
 当時、関東では鎌倉公方が古河公方と堀越公方に分裂し、 戦国大名も入り乱れて混乱していた。 
明応二年(1493)北条早雲は今川氏や上杉定正の援助を得て、 内乱状態の伊豆へ乱入した。
 堀越御所を急襲し、堀越公方足利茶々丸を追放して実権を握った。
 早雲は韮山城(静岡県韮山町)を本拠に、相模・武蔵・甲斐へと進出。 
これは、茶々丸追討のための軍事行動で、明応七年の茶々丸自害まで続く。
 茶々丸の死により、早雲は伊豆一国を平定。 
乱入から六年の歳月が過ぎた日のことであった。 
伊豆一国を手にした早雲は相模へ進出し、小田原城を奪取。
 永正六年(1509)扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と対立すると、 本格的に相模攻略に乗り出すが、攻略は険しかった。
 名族三浦氏を滅ぼし相模一国を手にするのは、永正十五年のことであった。
 翌年、早雲は韮山城でその生涯を閉じる。享年八十八といわれる。

  東海地方と信玄・謙信 東海では三者が鼎立し 信玄・謙信は因縁の対決 
代々駿河国の守護職を世襲する今川氏は、国人領主を支配化にまとめ、 強大な守護大名となっていった。
 氏親の代には「今川仮名目録」という分国法を制定、 戦国大名としても権力を維持した。
 その子義元の代に、武田信玄と婚姻関係を結び、遠江・三河にまで進出する。  
義元は太原雪斎と母寿桂尼の協力の下、やがて駿河・遠江・三河の三ヶ国を支配。 
東海第一の戦国大名へと成長したのである。 
天文十七年(1548)には尾張半国の領主織田信秀を小豆坂に破り 尾張にも橋頭堡を築くことに成功する。

 尾張の守護斯波氏は、十六世紀はじめにはすでにその力を失い 代わって守護代織田氏が上下の四郡ずつを支配していた。 
織田信秀は、下四郡を支配する清須織田氏の三奉行の一人であった。 
信秀は商業都市である津島を支配し、やがて那古野城を奪取。 
尾張国中へ進出し、西三河、美濃へも攻め入り、尾張国人衆の信頼を得ていく。 

「美濃の蝮」を呼ばれた斉藤道三。
 史料に登場した最初の名前を長井新九郎規秀という。 
道三は、宗家の家督と所領を奪い、次に守護代斉藤氏の家督を奪取する。 
天文二十一年(1552)守護土岐頼芸を追放し、名実ともに美濃国主となった。 
東海では西に斉藤道三、東に今川義元、中央に織田信秀という時代を迎える。 

戦国最強といわれた武田軍団を率いた武田信玄。
 彼も父を追放して甲斐国主となった戦国の申し子である。 
天文十一年(1542)諏訪氏を滅ぼし、信濃へと勢力を拡大。
 信濃侵入により、村上氏・小笠原氏といった名族が越後へ逃亡、長尾景虎を頼る。  

長尾景虎(上杉謙信)は、守護代長尾氏を継ぎ、守護家の断絶で越後国主の座を獲得。
 謙信の生涯は国外出兵に明け暮れ、北陸方面には十回程度、 関東管領職となることにより、関東へも十回以上出兵している。
 両雄は、天文二十二年(1553)を皮切りに、 じつに五回にわたって川中島で戦闘を繰り返した。
 唯一、主力部隊による白兵戦が展開されたのは 永禄四年(1561)の戦いで、両軍に多数の死傷者を出している。 
当時有数の大激戦であったため、両雄一騎討ちという伝説さえ生まれる。

  次回予告
第2回 戦国の東北・中国・四国・九州の争い

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