重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
※マークをつけ、記事にしています。
間違いがあったらごめんなさい。
1468年 応仁2年
天皇 後土御門
将軍 足利義政
3月21日 西軍主力が京都伏見の稲荷山に拠る骨皮道賢を攻める。
5月2日 東軍の細川成之勢が西軍の斯波義廉邸を攻撃する。
7月10日 細川勝元が管領に再任。
8月19日 関白の一条兼良が戦火を避けて、奈良に下向する。
9月4日 東軍が仁和寺の西軍を攻撃。
9月22日 帰洛した義視が諫書を義政に呈出、東軍の陣所に入る。
閏10月16日 伊勢貞親の再出仕なる。
11月24日 義視が西軍に入る。※
12月5日 義視の官爵を削る。 ※
義視の西軍転出
兄の将軍義政に、日野勝光ら権臣の排除を訴えていれられず、
帰洛後も孤立していた義視が東軍の陣営から再出奔して比叡山に難を避け
11月24日に西軍入りをはたした。
これにより西軍の名分が確立し、戦いは長期戦の様相を呈することとなる。
足軽の出現
甲冑もつけず、鑓も持たず、剣一振りだけで戦う族で、
打ちこわし、火つけをいとわない。
6月8日に西軍本陣の櫓を襲撃した。
1469年 文明1年
天皇 後土御門
将軍 足利義政
3月14日 足利義視が山名宗全邸に赴く。
義視の「御成」で西軍の大・小名に対面し、
玉としての存在を内外に印象付ける。
6月16日 摂津の国人36氏が大内政弘に属する。※
7月12日 幕府が豊後の大友親繁に大内領への侵攻を命じる。
8月13日 遣明使船(勘合船)が帰国し、土佐へ着岸する。※
10月16日 東軍の山名是豊、赤松政秀らの軍勢が、
大内政弘勢を摂津の兵庫に撃破する。
※
摂津をめぐる攻防
水陸交通の要衝で、物流の一大拠点である摂津をめぐっての
大内政弘と細川勝元の争いは、応仁元年の11月、
大内勢の中島占拠に端を発するが、その後は翌年の9月9日の戦闘で
政弘の兵300余人が犠牲となるなど、一進一退を繰り返していた。
しかし、摂津に盤踞する国人(在地領主)36氏が、
こぞって守護の細川氏を離れ、政弘に寝返ったことで情勢は一変した。
大内勢の優位が確定的となり、政弘の摂津経略が一段を促進されることとなる。
遣明使船(勘合船)の災難
瀬戸内海の海上権に加えて、摂津までもが大内氏の支配下となった結果は、
貿易に重大な影響を及ぼすこととなった。
この日(8月13日)帰還した幕府の遣明使船が、
大内方による積荷の略奪を恐れ、細川氏の交易拠点である堺を避けて、
これとは隔絶された土佐に入港した。
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