それより、seesaaって記事のジャンルに「歴史」ってないんですかね?
結構不便ですねぇ…
実力がすべての戦国時代
群雄割拠の時代から信長の登場で全国統一へ
実力ある者が上位の者を倒す「下克上」
応仁の乱以降の戦国時代はまさに下克上の時代だった―
第2回
戦国の東北・中国・四国・九州の争い
戦国の東北
群雄割拠の中 伊達・芦名が台頭
戦国期、東北地方の有力大名は伊達氏と芦名氏だった。
伊達氏の台頭は、大永二年(1522)の陸奥国守護補任にはじまる。
守護職の名の下、伊達氏の勢力は飛躍的に拡大する。
だが、天文十一年(1542)に始まる一族の内紛により、その勢力に陰りが生じてくる。
芦名氏は、会津を本領に東白川地方にまで進出し、
北上を目指す常陸の佐竹氏と対立した。
北奥羽では三戸南部氏が南下し、その地位を確固たるものとしていた。
北出羽には安東氏が、南出羽は最上氏がその勢力を拡大しつつあった。
東北地方は群雄割拠の時代が長く続き、伊達政宗の登場を待たなければ
勢力図が大きく変化するまでにはいたらなかった。
中国・四国の動き
中国の覇者、毛利元就 四国の雄、長宗我部
毛利元就は小国の領主であったため、大内氏や尼子氏といった
強大な勢力の旗色を眺めながら領地を守り続けた。
元就の名を高めたのは、吉田郡山城篭城戦である。
尼子三万に対し、農民を取り込み八千人で五ヶ月近くも篭城。
尼子軍を退陣に追い込む。
天文二十四年(1555)元就は大内義隆を殺し権力を奪取した陶隆房を厳島合戦に破り 安芸・備後・周防・長門の四ヶ国の太守にのしあがった。
永禄九年(1566)には尼子氏の居城月山富田城(島根県広瀬町)を攻略、 中国全土と支配する大大名へ成長する。
阿波・讃岐両国は、細川氏の家臣三好氏の支配化におかれた。
細川氏は明応の変(明応二年 1493)で管領の地位を独占し、
幕府での専制化を強めたが、その後分裂紛争を繰り返したため、
細川氏領国の阿波も中央の争乱にかかわらざるを得なかった。
伊予では、河野氏と宇都宮氏の抗争が続いた。
河野氏は内紛により弱体化したため、村上水軍を通じて毛利氏と結び、
宇都宮氏は土佐の一条・長宗我部氏と結んだ。
豊後の大友氏も虎視眈々と伊予侵攻を狙っていたため、
各大名の思惑が交錯することとなった。
土佐では、七守護の割拠状況から、長宗我部氏が外交や抗争を駆逐し
天正三年(1575)に統一を果たした。
長宗我部元親は間髪いれず阿波に侵入、ついで讃岐、伊予へも出兵し
四国全土統一に向け大規模な軍事行動を開始する。
九州の争乱
大友と島津の争いに龍造寺がからむ
豊後国では、守護大内氏が戦国大名として成長していった。
天文二十年(1551)北九州に勢力を持つ大内義隆が討たれると
大友宗麟は九州探題に任命され、北部九州六ヶ国を領する大大名となる。
大内氏にかわって北九州まで勢力を拡大してきた毛利氏は
肥前で急成長を遂げた龍造寺隆信と結ぶ。
薩摩国は代々島津氏が握っていたが、
天文十九年(1550)分家の貴久が本家の家督と守護職を継承した。
この内紛で、島津氏は本格的な戦国大名へと転身する。
義久の代になると、大隈、日向も支配下に置く。
九州は大友・龍造寺・島津の三氏乱立の時代に突入する。
次回予告
第3回 戦国の畿内周辺と魔王の登場、そして戦国の終わり
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