今回は第34回、No.69~No.70まで紹介したいと思います。
プロフィールは戦国覇王戦国武将データファイルを参考にしています。
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No.69 『蒲生氏郷』がもう うじさと (1556~1595)
近江蒲生郡日野城に生まれる。はじめの名は賦秀(やすひで)、通称を忠三郎。
天正十二年(1584)伊勢松坂で十二万石の城主となり、
九州征伐ののち少将に昇任して松坂少将といわれた。
小田原征伐の功により、会津若松四十二万石に封ぜられた。
その後もたびたび加増され、所領は九十二万石に達した。
千利休の高弟7人のうちの1人。文武兼備の名将で、太閤秀吉も恐れた。
信長は「眼精(眼つき)常ならず」といい、
将来の大器たることを認め、末女の冬姫を妻にさせている。
「豊太閤なきあと、天下人になるのは
加賀の前田利家でなければ、この自分だ」
と言い切ったというが、文禄四年(1595)おしくも四十歳で没し、
子の秀行の代で蒲生家は断絶してしまう。
このポーズは結構好きです。
No.70 『竹中重治』(半兵衛)たけなか しげはる (1544~1579)
名は重治。半兵衛は通称。美濃の人。 父重元が若死し十六歳で菩提山城主となる。
最初斎藤道三・義龍・龍興の三代に仕えたが、龍興の滅亡とともに
織田信長に仕え、
豊臣秀吉に付属され秀吉麾下の謀将として知られたが、
天正七年(1579)秀吉の播磨三木城攻略に参加中、同所で病死した。
戦国きっての天才軍略家。
「謀略ある人なれども、うち見たるところは婦人のごとし」と記されている。
容貌は色白で、万事控えめな性格だったらしい。
クーデターを起こし奇略をもって千数百人で稲葉山城を手に入れたが
あっさりと龍興に城をかえして隠棲してしまう。
戦場にカムバックしてからのち、秀吉麾下となり三木城攻めにも参加するが、
結核に冒されておりいったん京都に帰って療養するも、
戦況が心配で播州の陣中へもどったが、
三木城の陥落を見る前に帰らぬ人となる。
36歳の若さだった。
なにか指示している時のポーズでしょうか。
次回は『尼子経久』『片倉景綱』の予定です。
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