戦国覇王第34回

2007年6月9日土曜日

戦国覇王

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全75体ある戦国覇王のフィギュアたちを写真つきで紹介しています。 

今回は第34回、No.69~No.70まで紹介したいと思います。

 プロフィールは戦国覇王戦国武将データファイルを参考にしています。 
誤植による間違いがある可能性があります。 画像をクリックすると大きくなります。

  No.69 『蒲生氏郷』がもう うじさと (1556~1595)

近江蒲生郡日野城に生まれる。はじめの名は賦秀(やすひで)、通称を忠三郎。
 天正十二年(1584)伊勢松坂で十二万石の城主となり、 
九州征伐ののち少将に昇任して松坂少将といわれた。 
小田原征伐の功により、会津若松四十二万石に封ぜられた。 
その後もたびたび加増され、所領は九十二万石に達した。 
千利休の高弟7人のうちの1人。文武兼備の名将で、太閤秀吉も恐れた。
 信長は「眼精(眼つき)常ならず」といい、 
将来の大器たることを認め、末女の冬姫を妻にさせている。 
「豊太閤なきあと、天下人になるのは  加賀の前田利家でなければ、この自分だ」 
と言い切ったというが、文禄四年(1595)おしくも四十歳で没し、 
子の秀行の代で蒲生家は断絶してしまう。 

 このポーズは結構好きです。






  No.70 『竹中重治』(半兵衛)たけなか しげはる (1544~1579)

名は重治。半兵衛は通称。美濃の人。 父重元が若死し十六歳で菩提山城主となる。
 最初斎藤道三・義龍・龍興の三代に仕えたが、龍興の滅亡とともに 織田信長に仕え、
豊臣秀吉に付属され秀吉麾下の謀将として知られたが、 
天正七年(1579)秀吉の播磨三木城攻略に参加中、同所で病死した。 
戦国きっての天才軍略家。 
「謀略ある人なれども、うち見たるところは婦人のごとし」と記されている。
 容貌は色白で、万事控えめな性格だったらしい。
 クーデターを起こし奇略をもって千数百人で稲葉山城を手に入れたが 
あっさりと龍興に城をかえして隠棲してしまう。
 戦場にカムバックしてからのち、秀吉麾下となり三木城攻めにも参加するが、
 結核に冒されておりいったん京都に帰って療養するも、
 戦況が心配で播州の陣中へもどったが、 三木城の陥落を見る前に帰らぬ人となる。
36歳の若さだった。 

 なにか指示している時のポーズでしょうか。







 次回は『尼子経久』『片倉景綱』の予定です。

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