重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
※マークをつけ、記事にしています。
間違いがあったらごめんなさい。
1492年 明応1年
天皇 後土御門 将軍 足利義材(義稙)
3月29日 安富元家、織田敏定、浦上則宗らの幕府軍が
近江の愛智川で六角高頼勢を破り、数百人を打ちとる。
5月2日 少貳政資と大内政弘の軍勢が筑前の筥前で戦い、
八幡宮が戦火にあう。
8月 幕府が使僧元菊を朝鮮に遣わし、山城妙勝寺修造の資を求める。
9月15日 幕府軍が六角高頼勢を攻撃。
10月20日 山城の狛野、木津両荘の国人が新関の停止を求め、
興福寺に訴えでる。
11月15日 三条西実隆邸で「源氏物語」研究会が催される。※
12月14日 近江一国の鎮定がなり、義材が帰京する。※
※歴史的な『源氏物語』共同研究会
この共同研究会は甘露寺親長、宗祇、肖柏、兼戴、玄清、宗長、それに実隆という、
名だたる文化人7人が一堂(三条西邸)に会して催された。
問題4ヵ条ずつを持ち寄り、実隆が筆記して、
肖柏が問題を読み上げるという方式で行われた。
※傍系将軍の意地
前年の8月以来、自ら率先して進めていた、
将軍義材の六角攻めがこの年、大いに進捗した。
肝心な標的の高頼は、前将軍義尚の時と同様、
本城の観音寺城が支えきれなくなると、機をみて甲賀の山中に逃走したために
しばらく戦局が停滞したが、この9月、赤松政則勢や土岐成頼勢をもって
近江国内の高頼の与党を一掃したことから、一国を折半して
六角政高と京極高清に与え、この日(12月14日)の帰京に至ったのだった。
前将軍の遺業を成就したことになるが、これも傍系の将軍として、
とにかく実績を作りたかったのであろう。
1493年 明応2年
天皇 後土御門 将軍 足利義材(義稙)
2月13日 幕府が遣明正使の天沢等恩を罷免にして新たに
堯夫寿蓂をこれに任じ、のち信書を授けて堺を出帆させる。
2月24日 将軍義材が河内に出陣し、正覚寺に陣して畠山基家の誉田城に迫る。
閏4月7日 細川政元の兵が河内で畠山政長を攻める。
25日、政長が同国正覚寺で自刃(52)。
4月22日 細川政元が義材に背き、
香厳院清晃を京都の遊初軒に迎え、挙兵する。※
6月29日 義材が幽閉先の竜安寺から脱出して越中へ逃走する。
10月 山城国一揆の籠もる稲八妻城が陥落し、惣国が崩壊。
※細川政元のクーデター
出征中の義材の留守をついた政元の政権奮取は、実に用意周到であった。
大御所義視の在世中から日野富子と結び、足利政知の子である
清晃擁立の準備を進めてきていたのである。
したがって、事が成就すると28日、清晃を義遐(よしとお)と改名させ、
将軍任官の布石とした。
この政変でとりわけ存在感をアピールしたのが越前の朝倉貞景だった。
彼は義材から討伐の標的とされていたから、その反発心も手伝ってか、
雑兵を1人も混えぬ一番隊の精兵2000を政元のもとへ上洛させ、
京の人々を驚かせている。
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