戦国百科 合戦 稲葉山城攻め

2007年9月13日木曜日

戦国百科

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猛将伝ですか?やってますよ。ゆっくりと。すごくゆっくりと。

  中部地方の合戦 
稲葉山城攻め 永禄十年(1567)
 織田信長vs斎藤龍興 
  <緊張関係にあった織田・斎藤軍の争いに決着  信長は天下統一の拠点を岐阜におく>

永禄三年(1560)の桶狭間の合戦で勝利した織田信長は尾張の統一を進めるとともに 美濃にも矛先を向けて稲葉山城(岐阜市)の斎藤氏と合戦に及んだ。 
これに先立つ天文十六年(1547)信長の父信秀は斎藤道三の籠る 稲葉山城を攻めて敗北を喫している。 
その後、両者は信長に道三の息女を娶らせて同盟を結んだが、 弘治二年(1556)の長良川の合戦で道三が敗死するや、この同盟も事実上破綻した。 

  斎藤氏は義龍から龍興へ 信長、美濃攻略に乗り出す 
さて、桶狭間の合戦直後、信長は西美濃に出兵し、 森部(岐阜県安八町)付近で合戦に及んでいる。 
この合戦では、信長の勘気をこうむっていた前田利家が戦功をあげたものの、 信長軍は百七十余人が討たれ、多大な損害をうけた。 
ところが翌永禄四年五月、義龍は急死し、その跡を若年の龍興が継いだ。
 これを好機とみた信長はふたたび西美濃に出兵し、墨俣城(墨俣市)を拠点とし、 十四条、軽海付近(いずれも同真正町)で早朝から夜半に及ぶ激戦を展開している。 
ここでも勝敗は決せず、斎藤軍は夜の闇の間に撤退し、 信長も翌朝墨俣を経て尾張に戻っている。
 なお、このときに信長軍が拠点とした墨俣城は、 のちに豊臣秀吉が築城で功績を挙げたという一夜城伝説で著名である。
 ただし、『太閤記』や『武功夜話』にみられるこのエピソードも 近年では疑問視する向きが強いらしい。 
また、美濃と尾張の境を流れる木曽川は、 現在では岐阜市南部あたりで南流しているが、 当時はさらに西方に流れ、現在の長良川の川筋に近い部分を流れていた。 
現代の感覚からすれば、信長軍は木曽川を越えて、 西美濃の奥深くで戦ったように思えるが、 じつは当時は乱流する木曽川対岸付近でこれらの合戦が展開されていた。 
墨俣城の性格も、このような地理的な環境を思えば、 その戦略的な重要性が改めて理解されるであろう。 

  敵対する城を次々に攻略 『信長公記』の著者も活躍 
信長の美濃攻略は思うようには進まなかったが、 永禄五年(1562)には三河の松平元康(徳川家康)と 「尾三同盟」を結んで東方に対する脅威をなくし、 同六年にはそれまで居城とした清洲城(愛知県清洲町)から、 濃尾平野の中央部にそびえる小牧山(同小牧市)に 居城と城下町を新たに建設し、美濃攻略の足場とした。 
まず、犬山城(同犬山市)主で、信長の一族でありながら敵対していた 織田信清に対して、その家臣を調略で味方に引き入れ包囲した。 
さらに、同七年には犬山城から木曽川を隔てた、 美濃側の鵜沼城(岐阜県各務原市)、猿喰城(同坂祝町)を攻略した。
 続いて、信長軍に属した佐藤紀伊守の居城である、 加治田城(同富加町)に対する付城として斎藤軍が築いた 堂洞城(同富加町・美濃加茂市)を猛攻のうえ、落城させた。  
堂洞城の合戦では『信長公記』の著者として知られる太田牛一が 見事な矢戦を行い、信長から褒賞を与えられている。 
稲葉山城の攻略は依然として進まなかったが、 同八年には苗木城(同中津川市)主遠山氏の息女を養女として、 甲斐武田信玄の子である勝頼嫁がせる約束を取り付けるなど、 しだいに信長は東美濃を中心に支配力を強めていった。

  難航した美濃攻略 美濃三人衆獲得で決する 
永禄九年にも信長は現在の各務原市付近で斎藤軍と合戦に及んだが、 またしても勝敗を決することができなかった。
 翌永禄十年(1567)八月一日になると、 龍興の重臣で美濃三人衆と呼ばれた稲葉一鉄、氏家卜全(うじいえぼくぜん) 安藤守就(もりなり)がそれぞれ人質を出すことを条件に信長に内応した。
 この機を逃さず信長はただちに軍を動かし、 稲葉山城の西方尾根続きの瑞龍寺山(岐阜市)に陣を構え、 城下の井口(いのくち)の町に放火し、 翌二日には稲葉山城の四方に鹿垣(ししがき)を巡らせて城を完全に包囲した。
 同様の包囲戦はのちに秀吉による播磨三木城攻め、 因幡鳥取城攻めなどでも行われている。
 これは敵軍の兵糧・援軍を断ち、 長期戦の構えでじっくりと敵の攻略を図るものである。
 同十五日、龍興は降伏し、長良川を舟で下って長島(三重県長島町)に退去した。 
ここに信長は、美濃一国をほぼ手中にし、居城を稲葉山城に移した。
 さらにそれまで井口とよばれたこの地を岐阜と改称し、 岐阜城を拠点として、天下統一への足取りを急速に進めていった。
 稲葉山城を退去した龍興は、その後石山本願寺に籠城して信長に抗するが、 最後は天正二年(1574)越前国敦賀(福井県敦賀市)で朝倉氏の軍中にあって 信長軍と戦い、敗れて討死した。 
なお、岐阜城落城の年代については永禄七年とする説が、 今日も地元郷土史家を中心に根強く唱えられているが、 現在では永禄十年落城説が定説化している。

  次回予告 中部地方の合戦 掛川城の戦

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