天王寺の戦
享禄四年(1531)
三好元長vs細川高国
<細川晴元と高国の対立は、裏切りで決着した
だが、勝利した晴元も配下に敗れることになる>
享禄四年(1531)六月四日、細川晴元方の三好元長は、
四天王寺(大阪市)を本陣とする細川高国方へ総攻撃を開始した。(『細川両家記』)
それまでの情勢は、むしろ高国方が優勢であった。
ところが後詰めの赤松政村が晴元方に寝返ったこともあり、
高国方は一気に総崩れとなってしまう。
高国は現在の尼崎付近にあった大物城(だいもつ)近くまで逃れたが、
ここで三好勢に捕らえられている。
このあっけない結末に、天王寺の戦は「大物崩れ」とよばれる。
大物崩れにより、それまでの「二川分流」には一応の終止符が打たれ、
細川晴元の勝利が確定した。
しかし、それは同時に勝利者内の晴元対三好という
主従の対立の激化の始まりでもあった。
管領家の抗争の中で細川高国が迫る
明応二年(1493)それまで短期間ながら三度にわたり管領をつとめた
細川政元(まさもと)はクーデターをおこし、将軍足利義材(よしき)を追放した。
細川氏による「京兆専制」の始まりである。
これにより畿内も戦国時代に突入したとされる。
翌年、政元は足利義高(よしたか)を将軍につけ、自らはまた管領に就任した。
ところが、その政元も、永正四年(1507)には養子の澄之(すみゆき)により暗殺されてしまう。
澄之自身はその直後に討たれているが、細川家は細川澄元(すみもと)と
細川高国の二勢力に分裂することになった。
これが「二川分流」である。
この澄元の子供が細川晴元である。
高国との抗争のなか、阿波で病死した澄元の意志を継ぎ、
晴元は大永七年(1527)に三好元長などを率いて阿波から堺へと進出した。
丹波八上城(やがみ 兵庫県篠山町)の波多野稙通(たねみち)や
柳本賢治(かたはる)ほか摂津の反高国派の国人も蜂起し、
高国は将軍足利義晴とともに近江へと逃れている。
この後、晴元は堺では足利義維(よしつな)を奉じて、
いわゆる「堺幕府」を開くことになる。(『大阪府史』)
大内義興(よしおき)と結び一時は畿内を支配した高国も、
近江に逃れて以後は、各地を転々としていたらしい。
天王寺の戦の直前には、浦上村宗(むらむね)をたより備前にいた。
村宗は守護代として備前と播磨西部の実権を握っていた武将である。
さらに、主君である播磨守護の赤松義村(よしむら)を暗殺し、
その子の政村を傀儡として守護に据えるなど下剋上の代表的な人物でもある。
この村宗と手を組むことで、高国は播磨東部を制圧するとともに、
享禄三年(1530)八月に摂津神呪寺(かんのうじ)まで進軍している。
その後は九月二十一日に富松城(とまつ 同尼崎市)、
十一月六日には大物城と晴元方の城を陥落させている。
特に大物城の陥落は、城を守備していた摂津守護代の薬師寺国盛の寝返りによるもので、
河原林左衛門尉などの晴元方の有力武将が討死した。
さらに、翌四年の二月二十八日には伊丹城(同伊丹市)、
三月六日には池田城(大阪府池田市)が高国方の手に落ち、
「堺幕府」を危機に陥れている。
一方このとき、三好元長は細川晴元と対立し阿波へ戻っていた。
しかし、危機的な状況に急ぎ堺へと呼び戻され、
四天王寺より南に位置する勝間まで進出していた高国勢をくいとめている。
その後は、しばらくの間四天王寺付近で膠着状態となる。
その間に、阿波からは細川持隆(もちたか)の率いる
晴元方の援軍も到着しつつあった。
紺屋の大甕に隠れた高国だったが・・・
最終決戦となった天王寺の戦は、最初に述べたようにあっけない幕切れとなった。
晴元方へ寝返った赤松政村は、父を浦上村宗に殺されていることもあり、
晴元方に密かに人質を出し、村宗を討つ機会を狙っていたのである。(『赤松記』)
敗北により浦上村宗は戦死、そのほかにも和泉守護の細川澄賢(すみかた)や
河原林日向守、波々伯部(ははかべ)兵庫介など高国方の武将が多数討死している。
高国は大物まで逃れ、紺屋の大甕に隠れていた。
しかし、探索方に瓜を与えられた子供の話から発見され捕らえられている。
高国はその後、六月八日に大物の広徳寺で切腹させられているが、
『細川両家記』によれば、
「なしといひ 又ありといふ 言の葉や 法の誠の こころ成らん」
など、各方へあてて数首の辞世の歌を残している。
下剋上の背景にある室町幕府的秩序
戦国時代は下剋上の世であったといわれる。
しかし、守護を弑した浦上村宗も自ら守護になることはできなかった。
たとえ実力があっても、将軍・管領・守護になるには家の格が必要であった。
「二川分流」を生み出した背景にも、このように細川家を通じてでなければ
主導権を握れないという室町幕府的秩序が存在した。
しかし、大物崩れで一方の核がなくなったことにより、
細川晴元と三好元長とは直接対決へと進んでいく。
元長自身は、晴元の依頼に応えた石山本願寺の一向一揆蜂起により、
大物崩れの翌年には堺の顕本寺で切腹して果てた。
しかし、その十数年後には元長の子である三好長慶(ながよし)が
足利将軍と細川晴元に打ち勝ち三好政権をうちたてることになる。
(『戦国三好一族』)
次回予告 近畿地方の合戦 野良田の戦
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