戦国百科 合戦 長良川の戦

2007年9月5日水曜日

戦国百科

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戦国無双2猛将伝のプレイ記はもう少々お待ちくだされ。 

  中部地方の合戦 
長良川の戦 弘治二年(1556)
 斎藤義龍vs斎藤道三 
  <起死回生ならず  骨肉の争いの果てに美濃の梟雄斎藤道三ついに死す>

戦国の梟雄とされる斎藤道三は主家である美濃国の守護土岐氏を追って、 稲葉山城(のちの岐阜城)を居城とし、美濃一国をほぼ手中にした。 
道三には義龍、孫四郎、喜平次をはじめとする子があったが、 道三は家督を継いだ義龍を疎遠にし、その弟である孫四郎らを寵愛した。 
父のこのような態度に、孫四郎らも次第に奢るようになり、 兄の義龍を疎んじるようになった。
 これに怒った義龍は、弘治一年(1555)病気を装い、 見舞いに訪れた弟二人を殺害し、父道三に反旗をひるがえすことになった。

  父と長男の相剋 出生の秘密もからむ?
以上は『信長公記』(しんちょうこうき)に記されている内容であるが、 一説には義龍と道三の関係が悪化した理由は、義龍がじつは道三の実子ではなく、 道三が追った主家土岐頼芸(よりなり)の実子であったといわれる。 
すなわち、頼芸の子を身籠った側室が道三に下賜され、 道三のもとで誕生したのが義龍というわけで、義龍は成長後、 家臣から自分の出生の秘密を聞かされ、実父頼芸を追った道三を 深く憎むようになったというものである。 
これは今日も広く知られている説で、江戸期に成立した書物に記されている。
 義龍が本当に頼芸の子であったのか、道三との不和の原因が はたしてこのような理由によるものなのか、真相は不明である。
 二人の子を殺された道三は『信長公記』によれば、 ほうほうの体で稲葉山城から逃れ、長良川を渡った北方の山県郡内に退いた。
 ここでいったん体制を整えた後、弘治二年(1556)四月十八日に 鶴山(『美濃明細記』等では鷺山)に陣をおいた。 
これに合力しようと、道三の娘婿にあたる尾張の織田信長も 美濃大良(岐阜県羽島市)に布陣した。 
これが長良川の戦の幕開けである。

  父道三を討った義龍 信長をも苦しめる 
長良川を挟んで対峙した道三・義龍軍のうち、 四月二十日の辰の刻(午前八時)義龍軍が最初に軍を動かした。 
これに応じて道三軍も鶴山を下りて長良川畔に軍を進めた。
 緒戦では義龍軍の竹腰道塵が長良川を渡って道三の本陣近くに切り込んだが、 逆に道三軍に討ち取られる結果になった。 
勝ちに乗じる道三軍に対し、ついで義龍自らが大軍を率いて長良川を渡り、激戦が展開された。 
この乱戦のなか、義龍軍の長井忠左衛門は道三を生け捕ろうと組みかかったが、 同じく義龍軍である小牧源太が駆け寄り、道三の臑を払って倒し、 押し伏せたところでその首をはねた。
 時に道三、享年六十三であった。  
その首を実検した義龍は親を殺した罪を自覚してその場で出家し、 「范可」(はんか)と号した。
 これは中国の故事で、親を殺した范可という者があったことに拠るものだという。  
道三を討ち取った范可こと義龍は、ただちに大良に布陣した 信長軍合戦を仕掛け、信長軍の諸将を討ち取った。 
信長軍は、信長自ら殿軍をつとめ、迫り来る義龍軍に鉄砲を撃ちかけながら撤退した。
 信長が美濃に出陣して留守となった尾張では、尾張岩倉城(愛知県岩倉市)主の 織田伊勢守が義龍と結んで信長に敵対行動を示していた。 
これ以後、信長自身も尾張統一・美濃攻略へと、苦難の時期が続くことになる。 
義龍軍に討ち取られた道三の亡骸は、長良川右岸の崇福寺の西南に葬られた。
 しかし、付近はたびたび長良川の洪水の被害を受け、 道三を葬った塚もそのたびに流された。 
現在、岐阜市道三塚町の住宅地の一角には道三塚と呼ばれる碑が建てられている。
 これは、天保八年(1837)に道三の菩提寺である常在寺第二十七世の 日椿上人によって建立されたものである。 

  斎藤道三の後半生を見届けた長良川  
ところで、長良川の合戦の一日前に道三が子にあてた遺言状の存在が知られている。 
その内容は、決戦を前にして自らの進退の決意を述べ、 手紙をあてた子に対しては京都の妙覚寺で出家するように指示している。
 また、美濃国支配は譲状をもって織田信長に譲ると記されている。 
実際、義龍の弟にあたる日覚は妙覚寺に入り、のちに常在寺住職となっている。
 また、信長は永禄十年(1567)に義龍の子義興(たつおき)を稲葉山城から追って 美濃を支配することになった。
 ただし、遺言状の記述文言等から、これが実際に道三が記したものであるのか という点になると、疑問の声も少なくない。
 道三の晩年の居城となった鷺山城は、道三が追った土岐頼芸の居城であった。
 現在、岐阜市鷺山町には比高約三十メートルの独立丘があるが、 その付近が鷺山城跡である。 
丘状には城跡を示す碑が建てられているが、 堀切、土塁等はみられず、平坦な地形が残るのみである。 
『中島両以記文』によれば、土岐氏時代の鷺山城は鷺山の東にあり、 その周囲には一族の館や侍屋敷、百姓屋敷が入り乱れて設けられ、市場も存在したという。 
付近の土岐氏関連の城館である革手城、加納城、そして近年の発掘調査で その構造の一端が明らかにされた枝広館等(いずれも岐阜市内)が いずれも方形館の様相を示すことからすれば、道三が在城したころの 鷺山城も同様の方形館であった蓋然性は高い。 
鷺山山頂から東方を臨むと、長良川を隔てた真正面に稲葉山城の築かれた 金華山の山容がくっきりと認められ、長良川の合戦の両軍の対峙状況が想像される。

  次回予告 中部地方の合戦 桶狭間の戦

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