戦国百科 合戦 桶狭間の戦

2007年9月9日日曜日

戦国百科

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先週から大河に前田亜季がでてますね。 最終回まで出るようですね。
ファンなの。うれしい。 

  中部地方の合戦 
桶狭間の戦 永禄三年(1560)
織田信長vs今川義元 
  <東海道の雄今川義元の大軍一万をわずか二千で急襲 信長は最初の危機を乗り越える>

永禄二年(1559)二月、信長は将軍足利義輝のもとに上洛した。 
それはようやく尾張一国を統一したことの証であり、尾張守護職の承認でもあった。 
しかし、まだ尾張一国を完全に支配したというわけではなく、 尾張を取り巻く情勢は不安定なものであった。 

  今川義元が挙兵 桶狭間の合戦が開始 
そのようななか、足利一門の雄今川義元が上洛を目的に進軍を開始した。 
翌三年五月十日に井伊直盛、松平元康(のちの家康)を 先鋒として出発させた義元は、十二日に今川館を出発。 
十六日には駿河・遠江・三河の兵一万を率いて三河岡崎城まで進出してきた。
十八日、されに沓掛まで進み、十九日に田楽桶狭間(愛知県豊明市)し陣を敷いた。
 世に言う桶狭間の戦の開始である。
 桶狭間の戦については、従来、織田信長は急襲を行うため禅昌寺(名古屋市)から 今川軍を大きく迂回して桶狭間の義元本陣にむかって進んだとする 迂回攻撃説が有力視されてきた。
 しかし、近年は文献の詳細な検討から中嶋砦(同豊明市)からまっすぐに 義元本陣へ突き進んだとする正面攻撃説(藤本正行氏)がとられている。 
ここではこの説にしたがって『信長公記』(しんちょうこうき)に則して、 桶狭間の戦いをみていくこととしたい。 

  「人生五十年」舞い終えて 信長は今川急襲へと疾駆 
佐久間大学、織田玄蕃は、挙兵した義元が十九日の満潮にさいし 兵を進めるのではないかと考えたが、信長はこれを聞き入れなかった。 
ところが、今川軍は十八日明方から大高砦の対岸にある鷲津砦、 丸根砦(いずれも名古屋市)に攻撃を仕掛けてきた。 
 これを聞いた信長は 
「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 
  一度生を得て 滅せぬ者のあるべきか」
とひとさし舞い、法螺貝を合図に戦場にかけた。 
このとき、伴のものは小姓衆六騎だけであったと伝える。 
熱田まで三里を駆けたが、時すでに遅く両砦からは煙が上がり、 落城の様相を呈していた。
 これを東に見ながら信長はさらに駆け、 熱田から丹下砦(名古屋市)を経て佐久間の守る禅昌寺砦まで進んだ。 
ここは五つの砦の中でももっとも大きく、前線の拠点であった。
 ここで軍を立て直した信長は 「敵今川義元は四万五千の兵を率いて桶狭間山に人馬を休めこれあり」 と義元奇襲の決意を固めた。
 一方、五月十九日正午、兵をそろえ鷲津砦、 丸根砦を攻略した義元はその満足から謡を三番うたわせた。 
また、元康は大高砦へ兵糧を入れ、鷲津砦、 丸根砦攻略の労を癒すため、人馬を休めていた。
 信長軍は禅昌寺砦で義元軍と対峙する予定であったが、 一部の足軽が百ほどでフライングを起こし、 佐々、千秋等五十騎が今川軍に討ち取られた。 
これをみた義元は「義元が戈先には天魔鬼神も忍べからず」 心地よしとしてゆるゆると謡をうたわせた。
 義元の慢心はますます進む。
 ここで信長は、一騎しか通れないほど狭く、 脇は深い田であるため危険であるという家老たちの制止を振り切り、 禅昌寺砦へ兵を進めた。
このときの兵は二千ばかりであったという。 そしてさらに信長は兵を前に進める。
 夜行行軍で大高城へ兵糧を入れ、鷲津砦、丸根砦で苦戦する兵を眼前にして 
「小軍ニシテ大敵ヲ恐ルコト莫カレ、運ハ天ニ在リ」 
とこの軍に参加する者は家の面目、末代までの高名であると 前面総攻撃の決心を固めた。
 このときにわかに天候が急変し、急雨石氷を打つように敵の前面に打ちつけ、 味方にはうしろのほうに降りかかった。
 信長は「我らは熱田大明神の神軍か」と鑓を取ると「すはかかれ」と大声を張り上げた。
 黒煙を立てて迫りくる信長軍を見た今川軍は、水を引くがごとく後ろに引き崩れた。
 義元も輿を捨てて逃げた。

  信長、義元を討ち取り家康を盟友をする  
五月十九日、義元は旗本三百騎に囲まれて後退を続けた。
 しかし、信長軍の五度にわたる攻勢でしだいに消耗し、 ついに五十騎ばかりになった。
信長は馬を降り、家臣を激励した。 
服部小平太が義元に斬りかかり膝を払うと、 そのすきに毛利新介が切り伏せて頸を取った。
 このように桶狭間の戦は俗に言う迂回をともなった奇襲ではなく 前面からの急襲であったとするほうが正しいのかもしれない。
 信長はその日のうちに義元の頸を馬前に掲げて清洲城(同清洲町)に凱旋した。 
翌日、実検をした頸は三千にも達したという。 
信長は義元を手厚く葬るため熱田須賀口に義元塚を築き、 千部経を読ませ大卒塔婆を立てさせて頸を納めた。 
その一方で、信長はこの合戦での勝利を記憶するため、 
「義元不断さされたる秘蔵の名誉の左文字の刀めし上げられ、 
  何ヶ度もきらせられ、信長不断ささせられ候なり。 
  御手柄もうすばかりなき次第なり」 
と義元所有の刀左文字を戦利品として所持した。 
今この刀は建勲神社蔵として保存されている。
 刀のなかごには「織田尾張守信長」「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀」 と金象嵌されている。 
この合戦で信長は背後の敵から解放され、 家康という生涯を通じて最良の同盟軍を得るとともに、 最初の危機を脱出し天下布武への道を驀進していくことになる。 

  次回予告 中部地方の合戦 稲葉山城攻め

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