東大寺の戦
永禄十年(1567)
松永久秀vs三好三人衆
<対立する両者が東大寺の戒壇院と大仏殿に
立てこもった戦いは夜半、決定的な局面に至る>
天正五年(1577)十月十日、松永久秀の籠る
信貴山城(しぎざん 奈良県平郡町(へくり))は、
織田信長軍の攻撃により落城した。
落城の炎は奈良の街からも遠望できたらしい。
興福寺多聞院の英俊(えいしゅん)は翌日の日記に、
「昨夜、松永父子腹切自焼し了(おわ)んぬ。
(中略)
先年、大仏を十月十日に焼き、その時刻に終わり了んぬ。
仏を焼きはたす、我も焼きはてなり」
と記している。
奈良の住人にとって、久秀は東大寺の大仏殿を焼いた男として記憶されていた。
その久秀が大仏殿を焼いたのと同じ日に死んだことは、
強く印象に残ったのであろうか。
大仏殿が焼けたのは、ちょうど十年前の永禄十年(1567)十月十日。
これが久秀と三好三人衆が対決した東大寺の戦である。
将軍義輝を殺害の後、久秀と三好三人衆の対立激化
松永久秀が信貴山城を足場に大和への侵攻を開始したのは
永禄二年(1559)八月である。(『細川家両記』)
三好長慶の一武将として、大和を支配下におくためであった。
当時の三好氏は摂津・河内・和泉を中心に、
丹波や東播磨など畿内の大半を支配しており、
大和への侵攻もその一環であった。
久秀が拠点とした信貴山城は、大和と河内の国境に位置する。
これまでも木沢長政など大和を外部から侵攻する勢力が
たびたび利用した城である。
さらに翌年には、奈良支配の拠点として、
久秀は奈良街の北側に位置する丘陵上に多聞城(奈良市)を築いている。
久秀の活動が目立ってくるのは、大和支配のころからである。
永禄七年(1564)には、久秀の主である三好長慶が
飯盛山城(いいもりやま 大阪府四條畷市)で没する。
三好家は養子の義継(よしつぐ)が継ぎ、三好三人衆と呼ばれる、
三好長逸(ながゆき)、三好政康、石成友通(いわなりともみち)の
三人がその後見とあるが、一方で久秀も三好家内を主導するようになり、
三人衆との確執が高まる。
それでも反三好の動きをする将軍足利義輝がいたあいだは、
利害の一致することもあった。
永禄八年五月十九日、三人衆と久秀の嫡子の久通は
共謀して足利義輝を京都の館に襲撃した。
義輝は奮戦ののち討死する。(『足利季世記』)
共通の敵がいなくなり、同年の秋ごろには久秀と三人衆の対立は決定的となる。
その後、松永方の摂津滝山城(兵庫県神戸市)や多聞城などで
両者の一進一退が続くことになる。
「猛火天に満ち…」東大寺大仏殿も炎上
永禄十年(1567)になると、四月にそれまで三人衆方であった
三好義継が久秀方につき、多聞城に入城している。(『細川両家記』)
対する三人衆も、一万の軍勢を率いて同月十八日に大和へ入り、
奈良はがぜんあわただしくなっている。(『多聞院日記』)
さらに、三人衆方には大和の武士で反松永派の
筒井順慶(じゅんけい)も合流し、二十四日には奈良市街内の
天満山(てんまやま)と大乗院山(だいじょういん)に陣をしいている。
このとき、興福寺五重塔や南大門に登った三人衆方の兵士が
鉄砲の射撃を行い、両軍の緊張は高まっていった。
五月二日になると、三人衆の石成友通や池田勝政が東大寺の
二月堂や大仏殿まで陣を進め、松永方は東大寺戒壇院に立てこもっている。
大仏殿と戒壇院は、数百メートルしか離れていないので、
まさに一触即発といえるであろう。
ところが、このまま両者は膠着状態に入る。
小競り合いは各地で続くが、決定的な合戦がないまま九月を迎えている。
松永久秀が積極的に動かなかったのは、河内の畠山高政と
紀伊の根来(ねごろ)衆の援軍を待っていたのであろう。
しかし、九月に入り、紀ノ川沿いを進んだ三千ほどの畠山・根来軍は、
御所(ごぜ)市付近にあった筒井方の「幸田ノ城」を攻めて
敗北してしまう。(『多聞院日記』)
援軍の見込みがなくなったことで、久秀が打った起死回生策が
大仏殿への夜襲だったのである。
子の刻(夜中の十二時)より開始された夜襲に、
三人衆方は池田勝政の陣以外は総崩れとなる。
三人衆方には播磨から別所氏も援軍に来ており、
東大寺の南側の氷室山に陣をおいていたが、自焼して撤退している。
合戦の混乱の中、丑の刻(午前二時)ごろには大仏殿にも火が回り、
「猛火天に満ち、さながら雷電のごとし」
(『多聞院日記』)といった状況になった。
また、槍で有名な宝蔵院の「ヤリ中村」も討死している。
こうして、東大寺の合戦は松永久秀の辛うじての勝利となる。
ただ、大局は大きく変わらず、決定的な決着はつかないまま、
翌年の織田信長の上洛を迎える。
この戦いは、大和の武士たちにとっては、
しょせん外部から来た他人の喧嘩である。
大和で戦国大名化をめざす筒井順慶は、
三人衆方につくことで松永方からの大和回復を目指すが、
信長により久秀の大和支配が認められたことで、
この目論見も頓挫してしまう。
地元勢力による大和支配の回復は、
元亀二年(1571)の辰市合戦までもちこされることになる。
次回予告 近畿地方の合戦 箕作城・観音寺城攻め
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