応仁の乱~大坂夏の陣までのおよそ150年間を戦国時代と想定し
年代順に年表と記事を掲載。
重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
※マークをつけ、記事にしています。
間違いがあったらごめんなさい。
1567年 永禄10年
天皇 正親町 将軍 不在
4月18日 六角義賢・善治父子が『六角氏式目』を定める。
8月17日 今川氏真が駿河・伊豆・遠江から甲斐へ送っていた塩の荷を止める。
9月初旬 信長が斎藤龍興の稲葉山城を攻略する。
ついで同城に移り、この地を岐阜と改名。
10月10日 松永久秀が三好三人衆を東大寺に破る。大仏殿焼失。
10月19日 武田信玄が嫡男義信を自害させる。※
10月 信長が加納に楽市令をだす。
この年、信長の妹お市の方が浅井長政に嫁ぐ。(異説もあり)※
この年、大友宗麟がイエズス会の宣教師に臼杵の土地を与えて教会を建てさせる。
※信玄、嫡男義信を自害させる
謀反をおこした嫡男義信(よしのぶ)の甲府東光寺幽閉はほぼ二年に及んだ。
そしてこの年、信玄の命によって自害させられたのである。
この後、義信の妻である今川義元の娘は駿府へ送還。
翌年12月、信玄は駿河への侵攻を開始する。
※お市の方、波乱の後半生
織田信長の妹、お市の方が小谷城の浅井長政に嫁いだ。
信長は上洛への道を開くため、近江の浅井氏との同盟の証として、
お市の方が長政のもとへ嫁いだのである。
長政との間に、茶々(ちゃちゃ)、初(はつ)、江(ごう)の三人の娘をもうける。
しかし、やがて兄信長と夫長政は敵対することになる。
1568年 永禄11年
天皇 正親町 将軍 足利義栄・足利義昭
2月8日 足利義栄が14代将軍に任じられる。※
3月 上杉謙信の武将本庄繁長が武田信玄と結んで挙兵。※
6月8日 伊東義祐が飫肥城を攻略。
7月22日 足利義昭が美濃の立政寺で信長に迎えられる。
10月2日 信長が本願寺・堺などに矢銭を課す。
ついで堺の会合衆はこれを拒否。
10月18日 足利義昭が15代将軍に任じられる。
10月 信長が分国中の関所を撤廃。
12月13日 武田信玄が駿河に侵攻し、駿府へ入る。
今川氏真は遠江懸川城へ逃れる。
※十四代将軍義栄、病死
14代将軍となった足利義栄(あしかがよしひで)は、松永久秀、
さらには足利義昭を援助した織田信長によって上洛を阻まれたまま、
在任期間7か月の9月に、腫れものが原因で摂津富田の普門寺で死去する。
31歳。
※本庄繁長、武田と結んで挙兵
上杉謙信の将だった岩船郡本庄城に拠る本庄繁長(ほんじょうしげなが)が、
甲斐の武田信玄と同盟を結んで挙兵した。
信玄は北方の謙信を牽制するために繁長に目をつけ、同盟にさそったものとみられる。
信玄はまた、本願寺にも手をまわして、越中の一向宗徒を反謙信戦線に動員した。

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