関ヶ原の戦いとは何か
三成の挙兵(前編)
家康が軍を率いて伏見を発った数日後の七月二日、
佐和山城に蟄居していた石田三成のもとを訪ねた武将があった。
大谷吉継(おおたによしつぐ)である。
三成と吉継はともに秀吉に取り立てられた盟友であり、
吉継は戦略にも長けていた。
当時すでにライ病ともいわれる病に侵されていたといわれる。
俗に吉継が家康を討つための密謀をこらす目的で佐和山に行ったとされるが、
そのときの吉継は家康の命により、会津攻めに従軍するために、
敦賀をでて垂井にさしかかったときに三成に呼ばれ、
家康を討つ計画を初めて伝えられたようである。
吉継は先見の明のある人物であった。
三成が計画を打ち明けた時、吉継はそれに反対し三成をいさめたといわれる。
そして自らは再び東に下るために出発するが、三成との数十年来の友情を思い、
考えを変えて共に戦うことを決意し、佐和山に戻っている。
それが十一日のことであり、翌十二日には三成、吉継に増田長盛、
安国寺恵瓊らを加えて首脳会議が行われている。
その席で吉継は三成に対し、首将はつとまらない、と言い切った。
有力大名の中には三成を嫌う者も多く、
秀吉の権威を笠にきた三成の言動は信望をなくすもととなっていた。
三成自身もそのことは承知しており、
毛利輝元に西軍の総帥を依頼することとした。
この日のうちに長盛が調停役になって、輝元への要請状が出されている。
安国寺恵瓊は毛利家の家臣であったが、同じ毛利家の中でも
輝元の西軍への傾倒を阻止しようと動いたものもいた。
吉川広家である。
広家は当初から家康派であり、
毛利家の西軍への呼応を押しとどめようとしたが、時すでに遅く、
輝元は大坂城に入ってしまい、広家のもくろみはくるってしまう。
毛利家はこの時点でも二つの派閥に分かれていた。
まるで関ヶ原の毛利氏の動静を暗示しているかのようである。

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