三成の処刑と戦後処理の意味(前編)

2008年6月29日日曜日

戦国百科

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関ヶ原の戦いとは何か

三成の処刑と戦後処理の意味(前編)




明けて十六日、家康は小早川をはじめ、脇坂、朽木、小川ら
いわゆる「寝返り」組に佐和山城攻撃を命じている。
いわばほんものの忠節を試すためであり、
出馬を命じられた武将たちにとっては
この使命を遂行して初めて家康に受け入れられるのであり、
「お家」の存亡をかけたものであった。

佐和山には三成の兄正澄がおり、山城でもあったため攻めあぐんだ。
そこで夕方になって講和に持ち込んだが、
小早川らについていた田中吉政の隊が突然攻めのぼり、
城内は混乱の末、天守閣は炎上、正澄らは自害し、落城した。

その一方で、家康は毛利輝元との交渉も始めている。
輝元が秀頼を擁して再度挙兵するのを防ぐ意味もあった。

十八日になって、中山道を進んでいた秀忠軍がようやく草津に到着した。
秀忠軍が関ヶ原での東軍勝利を知った時はまだ木曽の山中あたりを行軍中であった。
途中、大雨による川の氾濫などに巻き込まれ関ヶ原が終わってからの到着となった。
家康は怒って三日の間秀忠に面会もしなかった。
榊原康政らのとりなしで面会を許されたのは二十一日のことである。

そして十九日には小西行長、二十一日には石田三成、
二十三日には安国寺恵瓊がそれぞれ捕えられた。
西軍の首脳のうち大谷吉継は関ヶ原で戦死し、
長束正家は三十日に水口城を攻められ自害している。
宇喜多秀家だけは捕まっていなかったが、
後に島津氏に匿われているところを見つけ出されている。

家康はみせしめのため、三名の処刑を断行した。
十月一日、三名は大坂、堺、京都の市中を引き回された上、
京都六条河原で斬首され、三条橋にさらされた。
そして当時大坂城留守居役であった増田長盛に関しては
処分に頭を悩ませたようであるが、
西軍の情報を漏らしたこともあり、命は助け、所領没収とした。
長盛は高野山へ入っている。

東北、九州などでは、関ヶ原の本戦が終わった前後にも戦いは続いている。

たとえば六日には伊達政宗が上杉景勝領の陸奥桑折を攻め、
九州では同じ日、黒田如水が小倉城を攻めたりしているが、
こうした状況が十二月ごろまで続いていたと思われる。

この戦いにおいて、特徴的なことは、
どちらも総帥となるべき豊臣秀頼がまったくなにもしていないことである。
ここに「豊臣家の内部争い」としての側面が強く残ることはいなめない。
秀頼が出陣していたら、このような結果にはならなかったであろう。
もっとも、秀頼が出陣しなかったのは賢明な態度だといえるが、
結果として十数年後、再び戦火が起こることになる。

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