関ヶ原の戦いとは何か
伏見城の陥落と東西の動静(前編)
西軍が伏見城攻撃を始めたのは七月十七日であった。
しかし、城は容易に落ちない。
そこで三成自らが出馬し、総攻撃を開始した。
八月一日、鳥居元忠、松平家忠らが戦死し、伏見城は陥落した。
西軍は伏見城陥落を最大級に喧伝し、味方を増やそうとしている。
八月一日づけで増田、長束二奉行の連署状が、
伏見城の陥落した翌二日には二大老四奉行の連署状が出されている。
一方、小山に布陣していた徳川方であるが、
伏見城の落ちた翌日の八月二日、
家康は会津の押さえとして次男の結城秀康を置き、江戸にもどった。
そして八月五日づけで福島正則に井伊直政を先鋒として
出陣させたことを報じているが、自身は九月一日まで、
実に二十六日間江戸を動かず、形勢を眺めるだけにとどめている。
この間、家康はひたすら諸大名に手紙を書き送ったのであった。
伏見城の陥落した前後、北陸方面では、
前田利長が七月二十六日、二万六千の軍を率いて金沢を発ち、
加賀小松城の丹羽長重、大聖寺城の山口宗永が西軍であったため、
それを討つべく軍事行動をおこした。
しかし、小松城を攻めあぐね進路を変えて
八月三日に大聖寺城を落としている。
利長軍はそのまま大谷吉継の敦賀城を攻めるため南下するが、
吉継の流した流言にはまり、金沢に戻る途中、
そのままにした小松城の丹羽長重に遮られ、
九日浅井畷で戦闘が繰り広げられた。
利長は辛くも金沢城にもどっている。
このころから、少なくとも西軍は美濃の関ヶ原あたりが
主戦場になるであろうと考えていたようである。
三成は美濃垂井に至り、十日には大垣城に入っている。
西軍は十三日、毛利輝元の命により、増田、宇喜多両名が伊勢に下っている。
八月五日に西軍は伊勢に兵を進めていたが、
東西両勢力が伯仲する地域であり、重要視されていたと思われる。
事実、伊勢を平定しきれなかったことが西軍の敗因に繋がるのである。
東軍は福島正則を先鋒格として、
八月十四日には正則の居城である清州城に入っている。
しかし、家康の具体的指示が与えられておらず、
そのまま清州城に滞在し、無為に日々を送ることになる。
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