応仁の乱~大坂夏の陣までのおよそ150年間を戦国時代と想定し
年代順に年表と記事を掲載。
重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
※マークをつけ、記事にしています。
間違いがあったらごめんなさい。
1588年 天正16年
天皇 後陽成 将軍 不在
2月27日 山上宗二が『山上宗二記』を桑山重晴に伝授する。
2月 毛利輝元が領国八ヵ国の検地を開始する。
4月14日 後陽成天皇が聚楽第に行幸する。(18日滞在)
閏5月14日 秀吉が肥後の国一揆の責任を問い、佐々成政を自刃させる。※
6月17日 伊達政宗が佐竹義重・蘆名義広の連合軍と交戦する。(郡山合戦)※
7月6日 秀吉が諸国の百姓の武器を没収する。(刀狩令)
また、諸国の地頭・代官に海賊を取り締まらせる。
(海賊取締令)
8月12日 島津義久が秀吉の命で琉球王尚永に入貢をうながす。
9月9日 秀吉が鍛冶・番匠など諸職人の座を廃止する。
※成政、国人蜂起の責任をとらされる
秀吉は肥後の国一揆の原因は成政の悪政と決め付けた。
4月3日、成政は弁明のために隈本(熊本)を出発し、
大坂に向かったが、秀吉は彼を尼崎に幽閉。
そしてこの日、秀吉は成政に切腹を命じ、
翌日、肥後北半分を加藤清正に、南半分を小西行長に与えた。
※政宗、田村家をめぐる抗争に勝利
郡山合戦は、田村清顕(きよあき)死後の田村家をめぐる
伊達政宗と相馬義胤(よしたね)の抗争が原因で、義胤を側面から
援助するため佐竹義重・蘆名義広の連合軍が北上してきたのに始まる。
が、7月16日に岩城常隆と石川昭光の調停により講和が成立し、
政宗の外交的地位も安定する。
1589年 天正17年
天皇 後陽成 将軍 不在
2月 豊島城主安東道季が湊城主安東(秋田)実季を攻撃し、
実季は檜山城に逃れる。
5月27日 秀吉の妾妻茶々が、淀城で鶴松を出産する。※
6月5日 伊達政宗が、蘆名義広を破り、会津黒川城に入る。
7月7日 家康が年貢・夫役などの条規七ヵ条を定める。
7月13日 伊達政宗が簗田藤左衛門尉に会津に市町をたてさせ、
商売を管理させる。
11月24日 秀吉が小田原城主北条氏直に宣戦布告をする。※
この年、二条柳町に遊里が開設される。
このころ、雪村周継没。
※淀殿、秀吉の子を産む
豊臣秀吉の妾妻となっていた茶々(淀殿)が淀城(伏見区)で男子を産んだ。
秀吉は、棄て児はよく育つという民間信仰にちなんで、
この子に棄丸(すてまる)と名づけたが、すぐに鶴丸(つるまる)と改めた。
跡継ぎの誕生に狂喜した秀吉は、9月13日、
鶴丸をきらびやかな行列とともに、大坂城へ迎えた。
※秀吉が惣無事令違反と激怒
豊臣秀吉が、上野利根郡名胡桃(なぐるみ)城を奪取した
北条氏直を惣無事令違反と断定し、「軍勢を発向して誅伐する」と
記した五ヵ条の朱印状を発した。
ここに、豊臣・北条両氏の関係は完全に決裂した。
氏直は臨戦態勢を強化して領国内諸将に大動員をかけ、
小田原城や各地の支城への参集を命じた。
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