倒せ!大坂城 -徳川家康の謀略戦(3)
<関ヶ原の戦いを制した家康は豊臣家討滅のため
さまざまな挑発の末、ついに大坂の陣へ>
国家安康・君臣豊楽
慶長十五年六月以来、豊臣家がその府庫を傾けて行っていた
大仏殿再建の大工事がようやく完成し、その開眼ならびに
堂供養の盛儀が行われるはずの慶長十九年八月三日を旬日の後にひかえて、
豊臣家を中心に京・大坂・はその準備に湧きかえっていた。
家康もそのころまでは、豊臣家の莫大な出費のしらせに
大満悦であったのであるが、
七月二十一日になって突然、その風向きが一変した。
『駿府記』によると、以下のようである。
伝長老(註:金地院崇伝)・板倉内膳両人これを召す、仰せにいわく、
大仏鐘銘に関東不吉の語あり、上棟の日も吉日にあらず、御腹立云々
この降って湧いたような突如たる供養延期命令に、
豊臣家はいうにおよばず、京・大坂の貴賤衆庶は胆をひやした。
供養を延期させる最大の原因になった鐘銘の
「関東不吉の語」といわれるものの中で、
最も問題になったのが「国家安康・君臣豊楽」の八文字である。
これについての家康側の言い分はこうである。
「国家安泰の四文字の中に家康の名を織り込んでいるが、
これは和漢古来の法に背いていて無礼至極である。
しかも安の字で家康を切っている。まことに沙汰の限りである。
さらに君臣豊楽とあるのは豊臣を君として、
末永く楽しむと読もうとするものである。
つまりこの鐘銘は徳川家を呪い、豊臣家の繁栄をこい願うものに他ならぬ。」
巧みな挑発策
この鐘銘問題をきっかけに、東西の動きはにわかに活発になった。
��八月十三日)晴、片桐市正、夜中駿府下向、少々雑説、
大坂町人等物騒云々(『義演准后日記』)
とあることで、上下をあげての大坂の動揺ぶりがわかる。
関ヶ原合戦以来、家康の厚い信頼を背景に大坂城中の筆頭人となった
片桐且元はこの難局に処して、彼としては最大限の努力をしたようである。
しかし、所詮且元と家康とでは役者の格が違っていた。
且元は老獪な家康の術策におちいって、
ただいたずらに奔命に疲れるばかりであった。
鐘銘問題の釈明のために駿府に来ていた且元は、二十日余りも滞在しながら、
その間ついに家康との対面を許されず、ただ恟々として、
どうすれば家康の怒りを解くことができるかと案じるばかりであった。
別に淀殿の使として駿府に向かった大蔵卿局らは、
ただちに面会を許されたうえ、家康から温かい言葉や手厚いもてなしをうけ、
それまでの不安をすっかり解消して、喜々として帰坂した。
豊臣家の内部分裂をはかるまことに巧みな家康の政治手腕といえる。
家康はこのように女性たちを安心させる一方、且元に対しては崇伝らを通じて、
豊臣側が絶対に承服しないことを承知の上で、三つの難題をふきかけた。
秀頼が江戸に参勤するか、あるいは淀殿を人質として江戸へ下すか、
もしくは大坂を退城して何処かへの国替えを承知するか、
このいずれかを履行せよというのである。
しかし、時勢の推移や現実の力関係の認識にうとい
秀頼母子をはじめとする大坂の連中は、
家康の高圧的な三条件にすっかり血の気を頭にのぼらせていた。
そして鐘銘問題の釈明に出かけたはずの且元が、
それとはまったく関係のない三条件をつきつけられながら、
それをその場拒否しなかったばかりか、豊臣家存続のためには三条件のうち、
どれか一つを呑まねばなるまいと複命するのを聞いて、
且元をすっかり関東の廻し者、裏切り者ときめつけ、
殺してしまおうとさえしたのである。
こうなれば、且元も大坂城を退去せざるを得ない。
家康の信任の厚い且元を殺そうとしたり追い出したりすることは、
とりもなおさず関東への宣戦布告ということである。
豊臣側はまんまと家康の術策におちこんだ。
こうして大坂冬の陣がはじまることになる。
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