応仁の乱~大坂夏の陣までのおよそ150年間を戦国時代と想定し
年代順に年表と記事を掲載。
重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
※マークをつけ、記事にしています。
間違いがあったらごめんなさい。
1590年 天正18年
天皇 後陽成 将軍 不在
1月8日 豊臣秀吉が龍造寺高房・鍋島直茂らの知行割を決める。
3月1日 秀吉が小田原の北条氏を討つため京都を出発。
6月9日 秀吉が小田原陣中で伊達政宗を引見し、会津を没収。※
7月5日 小田原城主、北条氏直が秀吉に降伏。(秀吉の全国統一完成)
8月1日 家康が江戸城入城。※
9月14日 狩野永徳没。
10月 大崎・葛西両氏の遺臣らが、新領主木村吉晴に反抗して
一揆をおこす。(大崎・葛西一揆)
11月7日 秀吉が聚楽第で朝鮮使節を引見する。
※政宗、会津を返上を約束して許される
政宗の蘆名氏討滅を惣無事令違反とする秀吉は、
弁明のための政宗の上洛を強く求めていた。
政宗は小田原攻めのなりゆきをみて、3月に参陣を決めたが、
一説によると、出発前日の4月6日、母義姫(保春院)による
”政宗毒殺未遂事件”が起きたため、遅れて6月5日に到着。
会津の返上を約束してようやく出仕を許された。
※家康が決断、江戸城に入る
徳川家康が豊臣秀吉の転封命令にしたがい、
新しい関東の主として江戸城へ入城した。
家康に対して関東6ヵ国(伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総)
へ移るように命じた。
かつての大敵の服属を確かめ、また、自身が構想する支配体制を築くため
徳川氏の転封を決めたようだ。
1591年 天正19年
天皇 後陽成 将軍 不在
閏1月8日 天正遣欧使節とヴァリニャーノが秀吉と会見する。
2月13日 千利休が京都から堺へ追放される。
2月28日京都葭屋町の屋敷で自害。※
2月26日 市中に秀吉批判の落首があり、長谷川忠実が移す。
3月20日 佐竹義亘が太田城より水戸城に移る。
8月21日 秀吉が侍・中間・小者などの奉公人の身分異動禁止など
三ヶ条の条規を定める。
9月15日 秀吉が原田孫七朗にルソン(フィリピン)服属要求の書簡を発給。
10月10日 秀吉が肥前名護屋城築城を開始。※
12月28日 豊臣秀吉が関白となり、秀吉は太閤を称する。
※千利休が切腹
閏1月20日頃から、大徳寺山門の楼上においた利休の木像が問題化した。
2月13日、利休は堺での蟄居を命じられた。
前田利家は、大政所・北政所を通じて助命嘆願するよう勧めたが、
利休はこれを断った。
2月25日、大徳寺山門から引きずりおろされた利休の木像は、
聚楽第の大門戻橋で磔にされた。
翌26日、利休は京に呼び戻され、辞世の偈(仏の功徳をたたえる韻文体の文)
と和歌を残し、従容と死についた。
※肥前名護屋城の築城はじまる
秀吉は関白職を甥の秀次に譲る予定を明らかにし、
朝鮮出兵の意思を固め、九州の諸大名に対し名護屋に築城を命じた。
そしてこの日、浅野長政を惣奉行、黒田孝高を縄張り奉行として
築城普請が開始された。
石垣普請は島津氏が、障壁画は狩野光信が担当し、突貫工事で行われた。

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