文禄元年~文禄2年

2008年7月18日金曜日

戦国150年ニュース

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応仁の乱~大坂夏の陣までのおよそ150年間を戦国時代と想定し
年代順に年表と記事を掲載。

重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
マークをつけ、記事にしています。

間違いがあったらごめんなさい。


1592年  文禄元年

天皇 後陽成  将軍 不在


3月6日   豊臣秀次が百姓・町人の人掃(戸籍調査)を命じる。

4月12日   日本軍の先鋒、小西行長らの軍船七百艘余が釜山に上陸。
        第一次朝鮮出兵(文禄の役)がはじまる。

5月18日   秀吉が明・朝鮮を含めた大帝国構想を秀次に告げる。

6月15日   島津義久の家臣梅北国兼が佐敷城を奪う。

6月     蒲生氏郷が会津黒川を若松と改称し、
        居城と城下の普請に着手する。

7月7日   脇坂安治の水軍が全羅道(ちょるらど)で李舜臣の水軍に敗れる。

9月1日   明の沈惟敬が小西行長と50日間の停戦を約する。

11月24日  本願寺顕如没。




※第一次朝鮮出兵はじまる

釜山に上陸した日本軍は釜山城を、14日には東萊(とうらい)城を陥落させ
半月で梁山(りょうざん)密陽(みつよう)大邱(たいきゅう)
仁同(じんどう)尚州(しょうしゅう)聞慶(ぶんけい)の諸城を落とした。
戦わずして守兵が逃亡した城も多かったという。
続く第2軍から6軍までの将兵14万人も続々と釜山に入港した。



※顕如、多難な生涯を閉じる

本願寺11世顕如は、細川晴元の養女を妻とし、
姉は武田信玄の正妻で、政治抗争に巻き込まれざるをえず、
信長との11年に及ぶ石山合戦など多難な時代を生きた。
こののち、嫡子の教如が継職したが、
翌年、秀吉から准如に宗主の地位を譲るよう勧告され、
東西本願寺分裂のもととなる。




1593年  文禄2年

天皇 後陽成  将軍 不在


1月5日   豊臣秀吉が蝦夷島大館の蠣崎慶広に朱印状を与え、
        蝦夷島の支配権を認める。

2月14日   秀吉が名護屋在陣衆の逃亡を禁じるよう命じ、
        領内に人留番守を設ける。

5月1日   秀吉が朝鮮陣中で逃亡した大友義統を改易する。

6月28日   秀吉が日明講和7ヵ条を明使に提示する。

8月3日   秀吉の妾妻淀殿が大坂城で拾(秀頼)を出産する。

8月5日   今井宗久没。

11月16日  勅版最初の木活字本『古文孝経』が開版される。

12月    徳川家康が藤原惺窩に『貞観政要』を講じさせる。





※秀吉が講和7条件を提示

豊臣秀吉が明使を称する謝用梓(しゃようし)と除一貫(じょいっかん)に
対して日明講和の7ヶ条を提示した。
それは明皇帝の皇女(公主)が天皇のもとに降嫁する、
日明貿易を復活させる、朝鮮8道のうち南4道を日本領とする、
捕らえた2人の王子の返還などだった。
これらは不利な戦況を認めようとしない秀吉の条件だった。



※藤原惺窩が家康に帝王学を講義

『貞観政要』(じょうがんせいよう)は、善政の典型とうたわれた
唐の太宗と近臣の問答のなかで、政治倫理に関する部分をまとめた、
いわば帝王学の書である。
日本でも古くから天皇・公家に愛読され、家康もまた好んで読んだ。

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