大坂の陣作戦研究(2)
<絶望的な状況のもと大坂方諸将はいかに戦ったか
どのような作戦を立案実行する余地があったか>
東西陣営の冬の陣
さて、大坂方が専守防御の籠城案をとった
冬の陣の両軍の作戦についてふれてみる。
大坂城は北西東の三正面には淀川をはじめとする自然の障害があり、
比較的堅固であるといえるが、南正面だけはこれといった
自然の障害はなく開放されている。
従って籠城ともなればこの正面の補強が必要となり、
惣構として「空堀」を構築したほか、
真田幸村の進言によって、真田丸と呼ばれる出丸が、
平野口の外側に築かれた。
一説には、その心底を疑われかねなかった幸村が、
本城に籠ることなく全力をあげてこの出丸を守ったものとされている。
慶長十九年(1614)十一月九日、本格的な攻防戦が始められたが、
十二月四日、東軍の前田利常隊が真田丸を攻めて大損害を蒙り、
これと併行して南正面を攻めた松平忠直・井伊直孝隊も
城壁に迫って失敗したことが知られている。
真田丸がその真価を発揮した証左と言えよう。
しかし、もともと出丸とはあくまで要点の一時的防御のためのものであり、
突角を形成するという弱点から、いずれは放棄されるべきものである。
その出丸を東軍が力で迫って失敗したということは、
真田勢の士気が高く戦法に巧みであったほか、別の理由も考えられる。
それは東軍の全般方略にかかわる問題であり、
あえて無理をして陥れる必要がなかったということであった。
家康にとって、冬の陣は小手調べであるとともに、
内外堀を埋めさせるための謀略的出兵でしかなかった。
そのため無理な力攻めは避け、心理・謀略戦に重点を置いたのである。
坑道戦を行って城兵の神経にゆさぶりをかけ、
あるいは新式巨砲十数門の射撃によって
主戦論者に恐怖心をあたえることなどがそれであった。
つまり、坑道戦や火砲を戦術的に用いたというより、
むしろ心理戦に利用したと考えられる。
冬の陣においては、十一月二十六日の今福・鴫野合戦、
同二十九日の博労淵合戦などが目覚ましいものとして喧伝されているが、
いずれも東軍がその攻囲網を圧縮する過程において生起した合戦であり、
さして大きな戦術的意義は認められない。
だが、今福における木村重成・後藤基次らの奮戦は一応評価される。
この正面に向かった東軍の佐竹勢は、当初城方の第一~第四柵まで奪取したが、
木村・後藤隊の来援以降、これらを奪回されてしまった。
堅城大坂は戦術的に見る限り容易にこれを抜き難いことを示したものである。
二十九日の博労淵合戦においては、
守将薄田兼相の油断によって易々と砦を東軍に明け渡してしまった。
やはり城を守るのは人であることを示しているのである。
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