年代順に年表と記事を掲載。
重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
※マークをつけ、記事にしています。
間違いがあったらごめんなさい。
1600年 慶長5年
天皇 後陽成 将軍 不在
2月23日 宇土城主小西行長と対馬領主宗義智らが朝鮮に捕虜160人を送還する。
3月16日 オランダ船リーフデ号が佐志生沖に漂着。※
5月3日 家康が会津の上杉景勝討伐を命じる。
5月19日 儒者姜沆(かんはん)が2年8か月ぶりに帰国。
6月18日 家康が上杉景勝攻めのため伏見城を出発。※
7月12日 石田三成が家康追討の策を練り、
挙兵の盟主に毛利輝元を迎えようとはかる。
7月17日 長束正家・増田長盛・前田玄以らが
家康の罪科13ヶ条をあげ、諸大名に挙兵をうながす。
7月25日 三成挙兵の報に接した家康が、この日小山で諸将を集め軍議を開く。
8月1日 西軍が伏見城をおとし、守将鳥居元忠が戦死。※
9月15日 関ヶ原で東軍が西軍を破る。※
10月1日 石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が六条河原で斬首される。
10月10日 家康が毛利氏の所領7ヶ国を没収し、周防・長門を与える。
10月15日 家康が諸将の論功行賞を行う。
10月17日 家康が井伊直政に長宗我部氏の諸城を撤収させ、
遠江の山内一豊を入国させる。
12月5日 国主の交替に反対し、浦戸城に拠った
長宗我部氏の遺臣が降伏する。(浦戸一揆)
この年、熊本城の天守閣が完成する。
※リーフデ号、豊後に漂着
船はオランダ・ロッテルダムの東方貿易会社の木造帆船リーフデ号で、
日本に来航した最初のオランダ船である。
乗組員アダムスとヨーステンは船長の代理として大坂城で謁見、
のち家康の外交・貿易顧問として厚遇される。
※徳川家康、上杉攻めに出発
景勝は家康からの上洛要請に反論して、会津から動かなかった。
家康は当時、公儀(豊臣政権)代行者の地位からぬけでる
異変を望んでおり、4月末には内命を伝え、
6月2日に五奉行家の慎重論を無視して正式に討伐命令をだした。
家康軍は、この日のうちに近江水口を通過し、21日には三河に入った。
※家康の拠点、伏見城が陥落
徳川家康が伏見城に残したのは、老臣鳥居元忠らわずか1800人余にすぎなかった。
これに対して7月19日夕刻から、小早川秀秋、島津義弘ら
西軍約4万人が攻撃を開始した。
以来約10日余り守備兵はもちこたえたが、ついに陥落した。
��詳しくは→戦国百科 合戦 伏見城攻め)
※関ヶ原で東西両軍が激突
前夜来の雨はあがり、深い霧もようやく薄くなり始めた
午前8時ごろ、関ヶ原で東西両軍の火蓋が切られた。
戦闘は一進一退を繰り返し、正午ごろまで勝敗は決しなかった。
戦闘に直接くわわったのは東軍約4万人、西軍約3万5千人だった。
正午過ぎ、松尾山の小早川秀秋の寝返りで西軍が総崩れとなり、
6時間にわたった死闘も東軍の勝利が決まった。
��詳しくは→戦国百科 合戦 関ヶ原の戦(前編),(後編))
またのお越しをお待ち申し上げます。
ぽちっとしていただけると嬉しいです↓
0 件のコメント:
コメントを投稿