外国人の見た大坂の陣(2)
<大坂落城を経験した宣教師アビラ=ヒロンの
貴重な記録でつづる大坂両度の陣のすべて>
禁教令
慶長八年十二月二十三日(1614二月一日)、
徳川家康は南禅寺の僧金地院崇伝(こんちいんすうでん)に
次のようなキリシタン禁教令を書かせた。
いわく「ここに吉利支丹の徒党、適々(たまたま)日本に来る。
つとに商船を渡して資材を通ずるのみにあらず。
みだりに邪法を弘め正宗を惑わし、以て城中の政号を改め、
己の有と作さんと欲す。是れ大禍のきざしなり。
制せざるあるべからず云々」と。
家康がキリスト教をもって侵略的植民政策の手先と断じたことに、
特別の注意をはらっておきたい。
この禁教令にもとづいて幕府は、冬の陣の始まる直前、
すなわち洋暦十一月七、八の両日、在日宣教師のすべてを国外に追放する。
にもかかわらず、日本の地にはおよそ四十名の司祭が
殉教を覚悟して踏みとどまった。
このように禁教下、潜伏期に入った日本のカトリック教会は、
大坂の陣にあたって、はたして豊臣方の勝利に
一縷の望みをつないでいたのであろうか。
この点に関し、くだんの追放令が出た後も
日本に残留して布教活動をつづけていた
スペイン人ドミニコ会士ヤシント=オルファネールの記述。
彼の著『日本キリシタン教会史』(井出勝美訳)によれば、
「(我ら)すべての人々が秀頼の勝利を望んだのは、
秀頼が日本におけるキリスト教の自由な布教と、
多数の教会建設を約束していたからである」
という。
ただし、ほどなく彼は、かつての希望と祈りが
空しい幻想であったことを悟るに至る。
いずれにせよ、孤立無援の秀頼が、
キリシタン牢人衆にも大坂城へ馳せ参じてもらいたい一念で、
かかる空手形を濫発したとしても別段奇異なこととはみなされまい。
そのせいか、続々入城するキリシタン牢人衆が、信仰上、
かたく団結して行動を共にしたような形跡はまったくみられない。
秀頼のばらまいた金銀・恩賞がそのおもな狙いだったためであろうか。
ただしそのなかで宇喜多家の牢人ジョアン明石掃部(かもん)は別格であり、
キリシタン武将としては模範的といってよかった。
彼はこの一戦をいわばキリシタン解放戦ととらえ、
家族一同の協力のもと宣教師を自邸に匿いつつ奮戦する。
ペドウロ=モレホンの『続日本殉教録』(野間一正・佐久間正共訳)によれば、
掃部の陣営には、十字架を意匠化した馬標や、
聖ヤコブの描かれた幟(のぼり)がひらめいていた。
これを眺めた家康は「キリシタンが秀頼と陰謀をたくらんでいる」と考え、
あらためて同宗門に対する憎悪を深めたというが、それは当然であろう。
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