慶長3年~慶長4年

2008年7月29日火曜日

戦国150年ニュース

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応仁の乱~大坂夏の陣までのおよそ150年間を戦国時代と想定し
年代順に年表と記事を掲載。

重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
マークをつけ、記事にしています。

間違いがあったらごめんなさい。


1598年  慶長3年

天皇 後陽成  将軍 不在



1月10日   豊臣秀吉が会津に上杉景勝を封じる。

3月15日   秀吉が醍醐寺三宝院で観桜の宴を催す。(醍醐の花見)

8月5日   秀吉が家康・利家ら五人の年寄衆(五大老)に秀頼の後事を託す。

8月17日   秀吉が北政所の意により善光寺如来を信濃に戻す。

8月18日   豊臣秀吉没。

8月25日   家康・利家が朝鮮から諸将を召喚させる。

10月1日   明の武将菫一元が島津義弘を泗川に攻撃し、義弘に退けられる。

11月19日  李舜臣が露梁津で島津義弘らと戦い、戦死。




※上杉景勝を会津に封じる

豊臣秀吉が、会津城主蒲生秀行を下野宇都宮に転封し、
この日、会津には上杉景勝を移封した。
秀行は父氏郷の遺領会津92万石を継承していたが、家老蒲生郷安と対立した。
秀吉はこの家中不和に介入して郷安を許した。
納得しない秀行は郷安を加藤清正に預けて朝鮮に従軍させた。
これを聞いて怒った秀吉の決定だった。



※秀吉の死を隠し、撤兵命令

徳川家康と前田利家が、豊臣秀吉の死を隠して朝鮮からの撤兵を命じた。
この日、家康と利家は、浅野長政と石田三成を博多に下して、
朝鮮からの撤兵にあたるよう命じた。
この日、五奉行の連名で朝鮮の諸大名宛に書状を発給して
在陣の苦労をねぎらい、そのなかで秀吉の病気は回復したとした。




1599年  慶長4年

天皇 後陽成  将軍 不在



1月19日   徳川家康を前田利家ら反家康派が詰問する。

閏3月3日  前田利家没。

閏3月4日  石田三成を殺そうとした加藤清正・黒田長政らを家康が説得、
        ついで三成を佐和山城に退かせる。

4月16日   秀吉の廟所が阿弥陀ヶ峰に完成し、この日、仮殿遷宮が行われる。

5月19日   長宗我部元親没。

8月20日   五大老が平戸の松浦鎮信らに八幡船を禁止させる。

9月28日   家康が大坂城西の丸に入る。以後、西の丸政務をとる。

11月20日  家康が日蓮宗不受不施派の日奥を流罪とする。





※前田利家ら、家康を詰問

豊臣秀吉の定めた法度に背いて勝手に諸大名と姻戚関係を結んだ徳川家康を
前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、上杉景勝らが詰問した。
大名同士が勝手に姻戚関係を結ぶことは、1595年8月の御掟で禁止され、
秀吉の死の直前にも確認されていた。
しかし、家康は秀吉の死後ほどなくして
伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政と姻戚関係を結んだ。



※五大老「ばはん海賊」禁止を厳命

徳川家康ら五大老が平戸の松浦鎮信(まつらしげのぶ)に
八幡船(ばはんせん 海賊船)を禁止させ、
これに違反した者は領主共に成敗するむね厳命した。
平戸を本拠とする松浦氏は、自分の領国内の
海賊をある程度支配する立場にあった。
五大老は前年に没した秀吉の遺志をうけて、
依然として活動を続けている「ばはん海賊」を禁止したのである。








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