文明2年~3年

2007年7月1日日曜日

戦国150年ニュース

t f B! P L
う~む… 
ゲームとかで戦国時代が好きになった人には まだあまり馴染みのない時代かもしれませんね。
 今話題の石見銀山の開発は1533年ですし、 
信長の登場にいたっては、1548年(このニュース上ではたぶん最初)
 今日記事にするのは1470年ですぜ、半世紀以上待って… 

 応仁の乱~大坂夏の陣までのおよそ150年間を戦国時代と想定し 年代順に年表と記事を掲載。 
 重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは マークをつけ、記事にしています。  
間違いがあったらごめんなさい。

  1470年  文明2年 
  天皇 後土御門
  将軍 足利義政 

 2月9日    細川勝元が大内政弘の叔父大内道頓(教幸)を誘う。
 5月11日   西軍の諸将が小倉宮の迎立を決め、足利義視もこれに同意。
 5月―    将軍義政が大内道頓に大内分国の安堵状を与える。 
5月20日   東軍の細川勢(野田泰忠・薬師寺与次・四宮四郎右衛門尉)が 
         摂津の茨木城を攻略する。
8月10日   二条政嗣関白に任ぜられる。
 8月28日   将軍義政が朝鮮国王の李ケツに書を贈りその嗣立を祝賀。 

  東軍が大内家中の攪乱を画策  
管領細川勝元の勧誘に応じ、この春に東軍入りを鮮明にした大内道頓(教幸)は、 家中の七老臣に働きかけて、 (陶弘護・問田弘縄・仁保武安・杉弘重・杉重隆・豊田元秀・内藤武盛) 実子で甥の政弘の養子となっていた嘉々丸を当主に決めると、 長門の赤間関で挙兵し、政弘の留守を見計らって行動を活発化した。
 4月26日、政弘の陣中にあった大内家重臣の仁保盛安を寝返らせて、 その子の十郎を東軍の陣所に走らせ、 7月6日には、九州肥後の相良為続に支援を求めた。
 息子の嘉々丸の相続が幕府に認められたことなどを喧伝することで、 東軍入りの有利さを訴え、為続を誘ったのである。 
このため西軍全体に動揺をきたして離脱者が相次ぎ、 ついに5月19日には山名政豊(宗全の子で、彼の嫡男教豊の養嗣子)が 摂津下島の陣所を撤収して東軍に寝返るにいたった。


  1471年  文明3年
天皇 後土御門
  将軍 足利義政 

 5月21日   幕府が朝倉孝景に越前守護職への補任を約束する。 
 7月27日   本願寺の法王蓮如が越前の吉崎に道場を建立する。
8月26日   西軍が南朝の小倉宮王子を京都北野の松梅院に迎える。 
9月12日   大隈の向島(桜島)が噴火して多くの死者をだす。
 11月5日   幕府が島津立久に琉球渡航船の取締りを命じる。 
12月26日  大内道頓(教幸)が豊前の馬岳城で自刃する。

  ※下剋上の新守護誕生  
応仁2年閏10月14日の唐突な帰国以来、国元にあって主筋の斯波義廉の 宿敵にあたる同義敏勢の掃討に専念していた朝倉孝景が、 この日(5月21日)幕府から越前守護職への補任を約束された。 
むろん、西軍から幕府を奉じる東軍の寝返りの結果であったが、 その理由は、同じ西軍に属していた越前守護代のライバル甲斐氏を凌駕し、 斯波氏に替ることだった。 
下剋上が公認されたわけで、幕府機構の形骸化に拍車がかかる予兆となった。

  ※南朝の皇胤を頂く  
せっかく担いだ義視の官爵が剥奪され、賊徒呼ばわりされるにいたった 西軍方は、窮余の策として南朝(大覚寺統)の皇胤小倉宮を擁立し、 「新主上」(天皇)として公儀体制作りに腐心。

  ※一向宗の吉崎道場  
越前・加賀の諸所を布教して廻り、越前の吉崎を北陸布教の要をすべく ここに道場を設立した蓮如は、群集する道俗男女に対し、 信仰なき者の出入りを禁止した。

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