戦国ブログってことになってたりするんですかね~?
なんか知的な感じでイイ!(いや、オタクか…?)
応仁の乱~大坂夏の陣までのおよそ150年間を戦国時代と想定し
年代順に年表と記事を掲載。
重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
※マークをつけ、記事にしています。
間違いがあったらごめんなさい。
1472年 文明4年
天皇 後土御門 将軍 足利義政
1月16日 東西両軍の和平交渉が立ち消えとなる。※
1月21日 山名宗全が切腹をはかる。※
2月23日 島津立久が琉球の使者に答書を与える。
8月2日 浦上則宗の守る山城の天王山を畠山義就の軍勢が襲撃。
8月 山名宗全が家督を子の政豊に譲る。
9月3日 近江坂本の馬借が蜂起する。※
10月3日 将軍義政(幕府)が朝鮮に使者を派遣する。
12月 一条兼良の「花鳥余情」が完成する。
※和平交渉の模索
戦局が膠着し、厭戦ムードが高まる中で、東西両軍の和平が進められた。
公儀を軽んじて混乱に拍車をかけるのは、「ただ畜生のごときなり」といった
批判が武家に集中してきていたから、対応を迫られたのか。
西軍方では、宗全が1月16日、傘下の大名に触れをだして
上意(義政)一任の是非を問い、東軍でも勝元が所属大名の意見をとりまとめた。
その結果、西方では義就や政弘をはじめとするすべての大名の賛同を得たが、
東方では赤松政則が宗全所有の3ヶ国をめぐって和平に異を唱えたため
以後、立ち消えとなった。
※宗全の切腹騒動
和平の行き詰まりに責任を感じて失望してか、この夜(1月21日)
宗全が切腹をはかり、身内の介護でかろうじて一命をとりとめた。
これに関わってか、3月16日頃には勝元が隠居しているから、
ともに混乱の責任をとったのであろうか。
※近江坂本の馬借一揆
比叡山(延暦寺)に徳政を要求した坂本の馬借が、
9月3日、日吉十禅師社の下殿を焼く。
一揆の張本人は9月19日に捕らえられるが、
債権者の山門と馬借の敵対はその後も消えなかった。
一応、馬借(ばしゃく)ってのは、荷物を運ぶ業者さんのことです。運送業者。
1475年 文明5年
天皇 後土御門 将軍 足利義政→足利義尚
3月18日 山名宗全が没する。享年70。※
5月11日 細川勝元が没する。享年44。※
6月24日 義政が普広院で、義視が三時智恩院(入江殿)で義教の33回忌法会を修す。
8月26日 義視が大内政弘の館に迎えられる。
11月29日 幕府が紙商の九郎三郎光次に対し、取引の独占権を与える。
12月19日 義尚が元服し、将軍に任官。※
※応仁の乱当事者の頓死
宗全と勝元の相次ぐ急死は、前年に和平が破綻し、
その責任が問われていたときだけに、なんとも唐突であった。
公家の甘露寺親長などは、「赤入道」の死の報にも、
勝元と同様に天下大乱の張本とこれを非難している。
勝元にしても同様で、流行病によって非業の最期をとげたにもかかわらず、
大乗院の尋尊から「神罰だ」と批判された。
宗全の死は寿命としても、勝元のそれは業半ばだから、
宿敵宗全の死をうけた天の報いとされたらしい。
この2人の急死は、在陣諸将の厭戦気分を一段と煽るとともに、
和平の再交渉を促すにいたった。
※将軍交替の波紋
この年末に執り行なわれた義政の嫡子義尚の元服と将軍職の世襲は、
西軍の不安を決定的にした。
義満の佳礼にあやかったとはいえ、弱冠9才での任官は、
当将軍の義政が健在であっただけに、義政の養嗣子義視を擁する
西軍の一縷の望みをも断つに至ったのである。
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