戦国百科 合戦 堀越御所攻め

2007年7月8日日曜日

戦国百科

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最近大河ドラマをみるのが楽しみになってきました。ふと思ったので小ネタ?
  「風林火山」「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」
『其の疾きこと風の如く、其の徐なることは林の如く、
  侵掠することは火の如く、動かざることは山の如し』
というのは有名ですが、実はこれには続きがあって、
  「難知如陰、動如雷震、掠郷分衆、廓地分利、懸権而動」と続いており 
『知り難きことは陰の如く、動くことは雷の震うが如く、
  郷を掠(かす)むるには衆を分かち郷(むか)うところを指し、
  地を廓(ひろ)むるには利を分かち、権を懸けて而して動く。』
陰のように実態を隠せだとか、敵を欺くには部隊を分けて進むなどして 権謀をめぐらせて動きましょう。
 大体そんなことが書いてあります。 これはドラマ中でやったのかしら? 

 今回からは戦国時代の合戦を地域別に見ていきます。

  東北・関東の合戦
堀越御所攻め 
明応二年(1493) 北条早雲vs堀越公方(足利茶々丸)

応仁の乱(1467~1477)において、足利義視の近臣であった北条早雲は 京に戻った義視と袂を分かち、応仁二年(1468)ないし三年、駿河に下向。 
駿河入り当初、早雲がどのような待遇にあったのかは不明であるが 文明八年(1476)今川義忠の不慮の死によって、表舞台に登場する。
 遠江侵攻を繰り返した義忠は、遠江の国人領主であった 横地氏、勝間田氏を滅ぼすが凱旋の途中、義忠は遠江の塩買坂(静岡県小笠町)で 横地と勝間田の残党に襲われ死を遂げる。 

  早雲は今川家内訌を調停 今川氏親の後見人となる 
幼少であった義忠の嫡男龍王丸(たつおうまる)と、 義忠の従兄弟の小鹿新五郎範満との間で家督争いが生じ、 そればかりか近隣の扇谷上杉定正、堀越公方足利政知らの干渉もあり、 今川氏は存亡の岐路に立たされることになる。 
内訌は早雲による「龍王丸元服までは、小鹿範満が家督を代行」 という折衷案により武力衝突は避けられ、家督争いは一応収拾をみる。 
長享一年(1487)その後の早雲の生涯を方向づける事件が起こる。 
龍王丸元服後も小鹿範満は家督を譲ろうとせず、家督争いが再燃してしまう。
 早雲は小鹿範満を駿府今川氏館(静岡市)に急襲、 実力で龍王丸を今川氏七代氏親として家督に据えるのであった。 
この後、氏親の後見人として駿府に残り、今川氏の西進に尽力する。 

  堀越公方に家督争い 早雲は好機とみて急襲 
早雲は論功行賞として、伊豆半島の根元に位置する 興国寺城(こうこくじ 沼津市)を与えられた。 
そのころ、伊豆では堀越公方と称された、将軍足利義政の弟足利政知がいたが、 延徳三年(1491)の足利政知死去によって、伊豆は乱れはじめた。
 堀越公方には先妻との子の茶々丸と、後妻円満院との子、潤童子・清晃があった。 
円満院は潤童子を寵愛し茶々丸を疎んじていた。 
堀越公方の死去ののち家督をめぐって内訌が生じ、 茶々丸は継母円満院と義弟潤童子を殺害、自ら堀越公方の座についた。 
しかし内訌は治まらず、重臣外山豊前守や秋山蔵人(くらんど)の対立に発展、 その重臣をも殺害してしまったのだ。(豆州騒動) 
かねてよりこの内紛をうかがっていた早雲は、 明応二年(1493)好機到来とみるや、 堀越御所を急襲し茶々丸を追放、伊豆を奪取する。 
当時、関東は相模守扇谷上杉と関東管領山内上杉の対立が激化しており(長享の乱) 伊豆は山内上杉顕定の領国であった。 
早雲は伊豆乱入に際し、扇谷上杉定正と連携、山内上杉氏討伐という大義名分を得た。 
つまり、早雲の伊豆奪取には、堀越公方家の内紛だけではなく、 扇谷上杉定正との連携策も功を奏したのである。 
伊豆を追放された茶々丸は、甲斐で山内上杉顕定、武田信綱の援助を受け 伊豆奪回の機会をうかがっていたのだが、 明応七年(1498)早雲は甲斐に侵攻、茶々丸を自害に追い込み 名実ともに堀越公方討伐をとげた。 
この後も伊豆平定を進めていくが、楽なものではなく、 伊豆の完全平定にはかなりの年月を要している。 
伊豆平定後、早雲は韮山城(韮山町)を本拠とし、「豆州」を称されることとなる。
 伊豆国主堀越公方に対する呼称であり、名実ともに伊豆国主として 政治的地位を獲得し、ここに東国戦国大名の雄、北条五代の祖が誕生したのである。

  次回予告 関東・東北の合戦 小田原城攻め

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