中部地方の合戦
塩尻峠の戦い
天文十七年(1548)
武田晴信vs小笠原長時
<信濃侵攻を進める武田晴信は、塩尻峠の夜襲攻撃で
小笠原軍を敗退させ、諏訪を奪回する>
塩尻峠は、現在の長野県岡谷市の西側、塩尻市との境にある。
ちょうど諏訪湖周辺の盆地から松本方面にぬける場所にあたり、
付近は標高千メートル級の山並みが南北に続いている。
現在の塩尻峠には国道が通っているが、戦国期にはその南側約三キロの位置にある
勝弦(かつつる)峠を指して塩尻峠とよんでいたとされる。
(『諏訪神社神使御頭之日記』)
晴信の信濃侵攻をはばむ諏訪盆地の攻防
信濃の攻略を進める甲斐の武田晴信(信玄)は、
天文十一年(1542)諏訪頼重を滅ぼして諏訪郡を支配した。
そして、諏訪湖の南東約五キロにある上原城に重臣板垣信方を入れて
諏訪郡代として、その統治にあたらせた。
その後、晴信は佐久郡内の敵対勢力を駆逐し、北信濃に侵攻した。
同十七年(1548)二月十四日には上田原(長野県上田市)の合戦で
葛尾城主村上義清と激戦を展開したが、武田軍は惨敗し、
板垣信方も討死してしまった。
この結果、上原城には信方の弟室住玄蕃允(むろずみげんばのすけ)
が入ったが、郡代を失った諏訪郡には少なからず動揺が走った。
この間隙を衝くように、四月五日になると信濃守護小笠原長時、
その女婿で一度は晴信に属しながら反旗を翻した藤沢頼親、村上義清、
安曇郡の仁科氏らが諏訪郡内の諏訪下社に乱入し、火を放つ事件が起こった。
続く六月十日にも小笠原長時が諏訪下社に乱入している。
この時には下社地下人の反撃に遭い、長時自身手傷を負っている。
さらに、七月十日になると、諏訪湖西岸を勢力基盤とする西方衆、
および諏訪氏一族の矢島・花岡氏らが、小笠原長時と通じて諏訪郡に侵入した。
これに追われて、親武田派であった神長守矢頼真(かんおさもりやよりざね)
千野靱負尉(ちのゆげいのじょう)らは上原城に逃げ込んだ。
長時も塩尻峠に五千余の兵を率いて布陣し、威を振るった。
武田氏と同祖の小笠原氏 巨大山城を有する成長株
ここで、話が前後するが小笠原長時の家系について少し説明しておきたい。
小笠原氏は源義光の曽孫で信濃守加賀討美遠光を祖とし、
その子長清が伴野荘(同佐久市)の地頭に就任して以来、
代々信濃を勢力基盤とした。
南北朝以来、信濃守護として代を重ねている。
また、遠光の兄弟が武田氏の祖の信義にあたる。
したがって、小笠原氏と武田氏はその祖先を同じくしている。
長時の家系は、府中小笠原家とよばれ、居城を林城(同松本市)とした。
林城は巨大な山城で、現在も長大な竪堀、
無数に連続する曲輪郡の遺構を良好にとどめている。
このような大規模な城郭を機能させていた小笠原氏の力は、
過小評価されるものではない。
おそらく、小笠原氏は林城の縄張りに象徴されるように、戦国末期には、
守護大名から戦国大名へと時流に乗って成長しつつある存在であったと思われる。
武田軍は急襲攻撃で塩尻峠の激戦に勝利
さて、七月十一日に甲府で西方衆の乱入の知らせを聞いた晴信は、
その日の夕方に出陣したが、ただちに諏訪方面には出陣せず
八日間、甲斐国内にとどまっていた。
十八日になってようやく大井ヶ森(山梨県長坂町)から上原城に入った武田軍は、
十九日に未明に塩尻峠に布陣する小笠原軍を急襲した。
武田軍の迅速な攻撃に小笠原軍は狼狽し、不意を衝かれて千余人が討ち取られた。
「守矢信実訴状」によれば、小笠原軍は武具を着用していたものもなく、
大半は寝込みのところに攻撃を受けたという。
一説には、塩尻峠の合戦は一日で六度の合戦が行われ、
その最後の戦いで小笠原軍が武田軍の本営に肉薄したとき、
長時の家臣である西牧四郎左衛門、三村駿河守が武田軍に内応し、
背後から小笠原本隊に襲いかかったともいわれる。
このため、小笠原軍は総崩れとなり、長時自身も押し寄せる武田軍を
追い払いながらやっとのことで撤退した。
この合戦後、晴信は西方衆を追放し、その住居に放火、
さらにその所領を没収し、一部を蔵入地とした。
合戦が終結して一段落した七月二十五日、晴信は上原城に入城し、八月十日には、
今回の合戦の勝利が諏訪上社の応護によるもとのして太刀を奉納している。
そしてこれ以後、晴信による諏訪支配は安定期を迎えることになる。
そして、晴信は同年十月四日に長時の居城である林城に接近して
村井城(長野県松本市)を築き、小笠原軍を圧迫する。
その後、やや時期をおいた天文十九年(1550)七月、
晴信は小笠原領にふたたび侵攻し、ついに長時を追った。
長時の旧領をわがものとした晴信は、林城を破却し、
新たに深志城(のちの松本城)を修築して重臣馬場信春を在番させ、
信濃支配の一大拠点とした。
現在、塩尻峠の長井坂南には、塩尻峠の合戦における両軍の使者を葬ったという
首塚・胴塚が残され、激戦の名残を伝えている。
次回予告 中部地方の合戦 戸石城の戦い
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