戦国百科 合戦 戸石城の戦い

2007年8月27日月曜日

戦国百科

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中部地方の合戦 
戸石城の戦い 天文十九年(1550) 
村上義清vs武田晴信 
<武田晴信は上田原に続き村上義清と対戦するが 
 痛恨の「戸石崩れ」で惨敗した> 

 戸石城は、長野県上田市街地から北東へ約三キロ、 群馬県方面に抜ける街道を見下ろす山上に築かれた中世城郭である。
 戸石城は南北方向に広がる山上に位置し、枡形城、本城、戸石城とよばれる 三つの部分が一体となって広義の戸石城を形成するものである。
 このうち、本城部分がもっとも規模が大きく、 東西約二百メートル、南北約五十メートルである。 要所には石積み、土塁も認められる。 
その南北に位置する枡形城、戸石城は本城に比べると規模の点では劣るが、 それぞれ堀切を設けて半独立的な構えをとっている。
 戸石城の南西尾根続きには米山城とよばれる一画があり、 この部分も事実上、戸石城の範囲に含まれると考えられる。
 このように、戸石城は規模の大きな山城であるが、 その創築時期については定かではない。 
戦国末期には戸石城の西方約十キロの位置にある 葛尾城(長野県坂城町)主村上義清の支城として機能していた。 
義清は村上源氏の末裔とされ、当時、埴科・更科郡を中心に勢力を保持していた。

  上田原の雪辱を期し 晴信は村上軍と再度対峙 
甲斐の武田晴信(信玄)は天文十七年(1548)二月十四日、 上田原(塩田原)において村上義清と戦い惨敗した。 
この合戦は、武田軍の支配領域に、敵対勢力の侵入、 蜂起をおこすなどの混乱を招いた。 
しかし、晴信は同年七月の塩尻峠(同岡谷市・塩尻市)の合戦で 小笠原長時を破り、さらに松本平に侵攻してついには小笠原領を奪取した。
 これにより上田原での敗戦のショックから立ち直った晴信は、 ふたたび村上義清を討つべく、その機会を虎視眈々と狙っていた。
 ちょうどこの折り、義清は近隣の高梨政頼と争っていた。 
その隙を衝くように晴信は天文十九年(1550)八月十九日、 戸石城攻略に向けて出陣した。 
二十四日には今井藤左衛門、安田式部少輔が、 二十五日には横田高松、原虎胤がそれぞれ戸石城の偵察に向かい、 二十八日には晴信も戸石城近くの屋降 (場所未詳。近年では戸石城南西の弥吾平に比定される)に着陣した。
 二十九日、晴信も戸石城近くに物見に赴き、矢を城内に射込んで、 合戦の開始を敵味方に知らせる合図とした。
 翌日、晴信はさらに戸石城に近づいた場所に本陣を移し、 城兵と対峙したが、ついに九月九日夕方の霧の振るなか、総攻撃に踏み切った。 
しかし、戸石城は容易に陥落せず、両軍の攻防は続いた。
 その間、晴信は家臣真田幸隆に命じて、義清方の埴科郡の清野氏、 高井群の須田新左衛門を武田方に鞍換えさせるのに成功した。
 武田軍は義清方の属将を味方につけ、しだいに義清方の勢力を削減させて圧迫した。 
一見、武田方の作戦は着実に成功しつつあるかに見えた。

  撤退する武田軍を村上軍が猛攻撃  
しかし、同月二十三日、義清が敵対抗争中であった高梨政頼と和睦し、 共同して武田方の寺尾城(長野市)に攻撃を仕掛けているという 情報が清野氏から注進された。
 寺尾城の救援に真田幸隆、勝沼衆も向かったが、 二十八日義清軍が寺尾城の包囲を解いたため、真田幸隆も帰陣した。
 三十日、武田軍営では軍議が開かれた。 
その内容の詳細は明らかではないが、戸石城の攻略が ひと月ほど経過しながらも依然として進まないこと、 高梨軍と和睦した村上軍の後詰も予想されることなどであったと考えられる。
 ともかく、軍議の結果は戸石城の包囲を解いて一端撤退することになった。
 翌十月一日、撤退する武田軍を追撃するように、村上軍がはたして来襲した。
 背後からの追撃をうけた武田軍は、横田高松、小沢式部、渡辺出雲をはじめ 千余人が村上軍に討ち取られ、大きな打撃をうけた。
 村上軍の攻撃は夜になって止んだ。 
武田軍は雨中を行軍してその日は望月に陣を張り、翌日諏訪へ帰陣した。
 この武田軍の敗戦は世に「戸石崩れ」といわれ、 『甲陽軍鑑』はこの戦いを評して「信玄公の御代に一の無手際なる合戦」 あるいは「晴信公御一代になき殿給ふ程の儀なり」と辛口に述べている。 

  真田軍により戸石城陥落 義清は長尾景虎を頼る 
このように、武田軍を苦しめた村上軍と戸石城であったが、 天文二十年(1551)五月一日、真田幸隆は独力で戸石城を占拠してしまう。
 幸隆が、晴信でさえ手こずった戸石城をあっけないほどに 入手した方法などは不明であるが、周辺の地理に明るい上、 政治工作で切り崩しを行ったためと一般には考えられている。
 義清は天文二十二年(1553)四月九日に本拠である葛尾城も武田軍に落とされ、 越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃れた。
 同年八月以降、数度にわたって景虎と晴信が戦った、 宿命の川中島の合戦が勃発することになる。(川中島は次回)
 川中島の合戦の一要因には、景虎が信濃を追われた村上義清の 失地回復をもくろんだ点が挙げられる。 
しかし、ついに義清は旧領を回復することができず、 その後は上杉氏の客将として厚遇をうけた。 
なお、戸石城の端部に位置する米山城には次のような伝承が残されている。
 晴信は米山城の攻撃にさいして水の手を絶ち、籠城軍を苦しめようとした。
 義清は馬の背に白米を流し、遠目からはあたかも 豊富な水で馬を洗っているようにみせかけた。 
これは各地の城郭でもしばしば伝えられる白米城伝説と同じで そのまま信じることはできないが、近年まで付近からは焼米が出土したという。

  次回予告 中部地方の合戦 川中島の戦い

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