戦国百科 合戦 川中島の戦い

2007年9月2日日曜日

戦国百科

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9月になりましたね。
 ちょっと早いかもですが、テンプレが金魚から紅葉になりやした。

  中部地方の合戦 川中島の戦い 天文二十二年~永禄七年(1553~64)
 武田信玄vs上杉謙信 
<北信濃諸将の要請で謙信が挙兵 
 第四次の戦は双方に多数の戦死者を出す肉弾戦となった> 

 甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の両雄が激突する「川中島の戦い」は 天文二十二年(1553)を皮切りに、弘治一年(1555)、同三年、 永禄四年(1561)、同七年と、五回にわたってくりひろげられた。
この戦は、北信濃制圧という領土的野心を持った信玄と、 救いを求める諸将の要請に応える謙信という図式でくりかえされ、 のちに宿命の対決とよびならわされた。

  信玄が北信濃を制圧 追われた豪族を謙信が保護
信玄は、天文十一年(1542)以後、破竹の勢いで信濃侵攻を進め、 諏訪、佐久を手中に収め、北信濃へと進出してきた。 
これに対し、北信濃の豪族村上義清は、天文十七年(1548)に 上田原(長野県上田市)で信玄を撃破、小笠原長時らと連合し、 反武田勢力を結集しつつあった。
 だが信玄は、同年、塩尻峠の奇襲戦によって小笠原軍を撃破し、 やがて長時を追放する。
 ついで、天文十九年に村上氏の拠点戸石城(同上田市)を攻めるが、 「戸石崩れ」と呼ばれるほどの大敗を喫してしまう。 
しかし翌年、真田幸隆の活躍によって戸石城をおとした信玄は、 天文二十二年(1553)、村上氏の本拠地葛尾城(同坂城町)をも陥落させた。
 村上義清は謙信のもとへ亡命、救援を要請する。
 謙信は小笠原長時も保護しており、さらに北信濃の諸将からも 援軍を求める声がとどいていた。
 謙信は前年に朝廷から叙位任官を得、さらに関東管領上杉憲政を保護していた。 
「義に厚い」謙信が要請を拒むはずもなく、ついに兵を挙げたのである。
 川中島(長野市)での両者のはじめての衝突(1553)は、 両軍ともに決戦を避け、局地的な小競り合いに終始し、 決着がつかぬまま、ともに兵を引いた。 
その後、四度にわたって川中島付近での戦がおこる。
 永禄四年の第四次の戦をのぞけば、いずれも小競り合い程度の合戦であった。 
紛争の直接的原因は信濃における領土争いであり、 間接的には上杉氏と対立する北条氏が武田氏と同盟関係にあったためでもある。 
永禄四年(1561)、信玄は海津城を築き高坂昌信に守らせた。 
謙信は、北信濃での劣勢を挽回しようと、一万三千の本隊を率い、 海津城の背後の妻女山に着陣、善光寺平にも五千を控えさせた。
 これに対し信玄は、一万七千の兵で海津城へ入城したのである。
 動員数は『甲陽軍鑑』等に記載された数字だが、 おそらく誇張され実数よりかなり多いと思われる。

  信玄本隊を強襲した謙信 背後から攻撃を受けて撤収
この戦がどのように推移したかを『甲陽軍鑑』をベースにみてみる。 
両軍は、対峙したまま半月ほど睨み合いを続けた。
 膠着状態を打破するために、先に動いたのは信玄であった。 
信玄は兵を二分し、半分で妻女山へ夜襲をかけ、 残り半分で山を下ってきた上杉軍を待ち伏せし、討ち取ろうという作戦に出た。 
これが有名な「キツツキ」の戦法で、軍師山本勘助の献策といわれている。 
九月九日の夜明け前、武田軍の妻女山攻撃部隊はひそかに出陣。 
これを察知した上杉軍は深夜に下山し、千曲川を渡った。
 謙信の動きを知らない信玄は、残り部隊を八幡原に布陣させ上杉軍を待っていた。
 はからずも両軍が行動を開始した夜は霧が深く、双方ともに、 相手の動きを把握できないまま夜明けをむかえている。 
夜が明け霧が晴れると、八幡原のほぼ中央で両軍が遭遇した。 
上杉軍は全軍で信玄本隊を強襲。
 数的劣勢の武田軍は苦戦を強いられ、信玄の弟信繁、山本勘助らが戦死し、 信玄も手傷を負い、崩壊寸前まで追い詰められてしまう。 
しかし、武田本隊が混乱を極めるなか、謙信もまた危機をむかえる。
 武田家嫡男の義信が、独断で謙信本陣に襲撃を仕掛けてきたのであった。
 先手の諸隊が分散して手薄であったため、本陣旗本まで追われ、 謙信自身も太刀を抜かなければならなかったほどと、のちの書状で本人が述べている。 
さらに、妻女山へ向かっていた武田軍の別働隊が引き返して参戦、 上杉勢の背後より襲いかかった。 
早朝以来の戦闘で疲労していた上杉軍は、新手の参戦に総退却。 
ここに、形勢は逆転するのであった。
 混乱した上杉軍が撤収したのは日没近くで、武田軍も追撃を断念。 戦闘は終了した。
 この戦いは、前半四時間、後半六時間あまりで、 上杉軍三千余、武田軍八千余という戦死者をだしたほどの肉弾戦であった。 
こののち信玄は川中島一帯を支配下に入れるが、 信濃一円支配は断念せざるをえなくなった。
 対して謙信は、信濃北部の現状を維持はしたが、 犀川以南を完全に失ってしまう。 
しかし兵力の点で見ると、武田軍にとって信繁をはじめとする 有力武将を失ったことは大きな誤算であった。
 一方、謙信はこののちすぐに関東に出兵しており、 兵力の損傷は少なかったかと思われる。
 したがって勝敗は、双方ともにダメージをうけ、 時間切れ引き分けというところであろうか。 
なお、この戦いにおいて、謙信が単身馬で信玄本陣に切り込み 信玄と一騎討ちをしたといわれているが、これは伝説である。
 その後、永禄七年(1564)に両雄にとって最後の川中島合戦がおこる。 
だが、両軍は塩崎付近で六十七日間対峙しただけで、ともに撤退している。
 こののち、謙信はもっぱら北陸・関東に軍を進め、 信玄は今川義元亡きあとの駿河・遠江侵略に全力を傾けることになる。 

  次回予告 中部地方の合戦 長良川の戦

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