重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
※マークをつけ、記事にしています。
間違いがあったらごめんなさい。
1490年 延徳2年
天皇 後土御門 将軍 足利義材(義稙)
1月1日 応仁二年以来中絶していた小朝拝と節会の皇室儀礼が復活する。
1月7日 准三宮で前の征夷大将軍足利義政が没する。享年55※
3月17日 この日より土一揆が北野社によって幕府軍とたたかい、社殿を焼く。
4月27日 日野富子が小河第を香厳院喝食の清晃に与える。
7月5日 義材が征夷大将軍に任官。
閏8月14日 京都の土一揆が徳政を要求。
12月12日 畠山義就が没する。
※隠者将軍の面目
義政の最後は、前後に連なる一族の相次ぐ逝去と相まって、
大乱の世代の終焉を物語っている。
山荘造営に専念すべく隠居をあせり、29歳の青壮年代にもかかわらず
弟を養嗣子に迎えたことが、応仁の大乱の一大要因になったのだから、
とても為政者としての評価など下せないであろうが、
山荘への執着とその成果となると話は別である。
出家願望の将軍ならではの創造と工夫がこらされている。
死去する前年の2月に観音殿銀閣の上棟がなり、
山荘の総構えは、この観音殿(銀閣)と常御所に加え、
西指庵・超然亭・持仏堂(東求堂)、会所とその庭園、
船舎、竜背橋、漱蘚亭(竹亭)、鈞秋亭などだが、
北山山荘とは正反対に寝殿は設けられていない。
つまり、晴向きの催しを拒否し、奥向き用に設営されたことをうかがわせる。
1491年 延徳3年
天皇 後土御門 将軍 足利義材(義稙)
1月7日 准三宮の足利義視が没する。53歳。※
4月3日 従三位左兵衛督の足利政知が没し(57)長子の茶々丸が跡目を継ぐ。※
7月1日 茶々丸が継母の武者小路氏と幼弟の潤童子を殺害する。
8月22日 将軍義材が近江守護の六角高頼を討つため、秦請して綸旨をうける。
8月27日 義材が近江に出馬し、三井寺の光浄院に陣する。
10月11日 幕府が斯波義寛に越前守護の朝倉貞景討伐を命じる。
10月 朝鮮国王李娎が義材に復書する。
※この年、伊勢宗瑞が伊豆の国を経略する。
※短命”大御所”の最後
息子の義材が将軍家の家督を相続したのにともない、
”大御所”として、応仁・文明の乱中は願っても叶えられなかった
権力を手にした義視は、亡き義尚のもう一人の養子清晃
(足利政知の二男)を取り立てはじめた日野富子に対抗し、
その料所を差し押さえるなど、専横な振舞いをはじめていたが、
兄義政の一周忌、それも、同月同日同時刻に病死した。
兄の養嗣子にされたがために数奇な運命を辿った義視だが、
結局最後まで兄の手から離れられなかった。
※堀越公方家の滅亡
将軍義材の伯父にあたる堀越公方、足利政知の病死は、
古河・堀越の両公方に扇谷・山内の両上杉(関東管領)という、
関東の政局のバランスを崩したばかりか、足元の家中にも大混乱をもたらした。
嫡子の茶々丸が父の溺愛した異母弟の潤童子と、
その母親を殺害して家督の地位の安泰をはかったものの、
家臣らの信頼を得られなかったからで、この間隙を隣国駿河の興国寺城主、
伊勢新九郎長氏(北条早雲)に狙われたのである。
堀越御所を夜襲されて滅ぼされ、代わった早雲が伊豆を平定し、
戦国大名への道を邁進することになる。
詳しくは→戦国百科 合戦 堀越御所攻め
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