戦国百科 合戦 掛川城の戦

2007年9月16日日曜日

戦国百科

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中部地方の合戦
掛川城の戦 永禄十一年~十二年(1568~69)
 徳川家康vs今川氏真 
  <義元亡きあと弱体化した今川氏を徳川・武田軍が攻撃 
 家康が掛川城を包囲して氏真を追放した> 

 今川義元は、領国拡大のため遠江から三河へ侵攻した。 
さらに甲斐の武田信玄、相模の北条氏康とのあいだで 「甲相駿三国同盟」を結んで後方を安全にしたうえ、 三河から尾張への侵攻を開始した。

  今川義元の敗死で、東海地方に再編成の動き 
 永禄三年(1560)の桶狭間の戦において、 織田信長の奇襲により義元が倒され、三河・遠江の状況は混乱に陥った。 
義元亡きあと、松平元康(徳川家康)が織田信長と結んで今川氏を離れると 他の三河武将らも追従し、その離反劇は次第に遠江へも波及していった。
 義元の死は、三河・遠江の混乱にとどまらず、 周辺に割拠する武将にも新たな行動への契機をもたらした。 
三河平定に成功した家康は、遠江侵攻の機会をうかがい始めたのである。 
永禄八年(1565)十一月、織田信長が武田信玄と同盟を結んだことにより、 「甲相駿三国同盟」は事実上決裂した。 
信玄も今川氏に見切りをつけたのである。 
今川氏の孤立が決定的になったのは、永禄九年、信玄と家康とのあいだで、 今川領国駿河・遠江の分割領有について密約が交わされたときである。 
これは分割領有密約であると同時に、三河から家康が、甲斐から信玄が、 同時に今川領に侵攻するという今川包囲網でもあった。 

  甲斐の信玄と三河の家康、同時に駿河に侵攻  
永禄十一年(1568)十二月二十日、信玄は甲斐から駿河へ侵攻を開始。 
駿府今川館(静岡市)を攻め、今川氏真(うじざね)を 掛川城(静岡県掛川市)へと敗走させた。 
駿河をおわれた氏真は、遠江の死守のため掛川城で再起を図ろうとした。 
掛川城には、父の氏親以来今川重臣として遠江平定に尽力した朝比奈泰朝がいた。 
一方、徳川家康も同年十二月十三日、三河・遠江の国境に到達し、 十五日には井伊谷に侵攻する。
 誘降作戦が進んでいたこともあって家康は抵抗らしい抵抗をほとんどうけることなく、 十八日には西遠江の要衝である引馬城(ひくま 同浜松市)にはいった。 
この快進撃をみてか、高天神城(同大東町)の小笠原与八郎、 馬伏塚城(まむしづか 同浅羽町)の小笠原氏興(うじおき)ら 他の今川武将も、戦わずして家康の軍門に降った。 
家康は、十二月十九日、久野城(くの 同袋井市)の久野宗能(むねよし)に命じて 天龍川に船橋をかけさせ、翌二十日、掛川城近くに迫った。
 今川氏真擁する掛川城今川軍と、徳川軍とのあいだに実際に戦闘が始まったのは、 十二月二十三日のことであった。 
翌年五月までのおよそ半年間におよぶ攻防戦が繰り返されるのである。
 家康も開戦当初より掛川城の落城は容易ではないとみており、 付近にいくつもの付城を築いている。
 家康は掛川城の北役800メートルの天王山砦(同掛川市)に本陣をおいた。 
そして、掛川城の東方の笠町砦(掛川市)には 山家三方衆の奥平九八郎貞能と菅沼新九郎正貞をおき、 西方の金丸山砦(掛川市)には久野宗能とその一族をおいた。 
さらに南方には重要な南北交通である塩の道の要衝にあたる峠に青田山砦(掛川市)を築き、 松平一族である竹谷松平清宗と形原松平家忠をおいた。
 この四砦により掛川城の四方を固め、そのほかにも河田村や曽我山などにも布陣して、 掛川城包囲網をしだいに強化していった。

  膠着状態が続き、家康の和平開城策を氏真は選択
年が改まった永禄十二年(1569)正月、今川氏の布陣する掛川古城(天王山) および天王山小路において戦闘がみられた。
 このときは本城の付近にまで戦闘がおよんだが、落城までにはいたらなかった。 
現在も天守丸に残る霧吹き井戸は、霧を吹いて徳川軍の侵攻を阻んだと伝えられており、 雲霧城の別称をもつ由縁である。 
掛川城が要害堅固な城であったことを示す逸話である。
 徳川軍の大軍をもってしても掛川城は容易に落城せず、 信長からの援軍も加わったが形勢は好転せず、戦況は膠着状態が続いた。
 ここで、笹町砦の奥平貞能が家康に和平開城を進言した。
 家康も力攻めでの落城が困難と見て、しだいに和平開城策に傾倒していった。 
交渉は三月八日から始められた。 
「松平記」は、信玄追撃後、駿河を氏真に返す、という講和条件があったと伝えている。 
五月十五日、今川氏真は小田原の北条氏を頼って、 懸塚(かけづか 同竜洋町)から戸倉城(同清水町)へ入った。 
東海一の弓取りとして名を馳せた名門今川氏は、掛川城開城をもって滅亡した。 
家康領有後の掛川城には重臣石川家成が入城し、東遠江の支配にあたった。 
同時に武田氏との緊張状態の中、天正二年(1574)高天神城が 武田氏によって落とされると、掛川城の重要性は以前にも増し、 「境目の城」として位置づけられて武田氏の侵攻を防ぐ役をした。 

 次回からは近畿地方の合戦に入っていきたいと思います。

  次回予告 近畿地方の合戦 船岡山の戦

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