戦国百科 合戦 船岡山の戦

2007年9月20日木曜日

戦国百科

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近畿地方の合戦 
船岡山の戦 永正八年(1511)
 細川高国・大内義興vs細川澄元・政賢 
  <将軍義尹と義澄の争いに、  管領細川氏も二派に分かれて激突した> 

 永正八年(1511)八月二十四日、船岡山(京都市北区)に陣した 細川澄元(すみもと)・政賢(まさかた)・元常(もとつね)の兵を、 足利義尹(よしただ のち義稙(よしたね))・細川高国と 大内義興(よしおき)の兵が攻め破った。 
これが船岡山の戦いである。
 これに先立つこと四十数年前に始まった 応仁・文明の乱(1467~86)、長享・延徳の乱(1487~91)という、 二度にわたる将軍の後継者と管領職をめぐる政権争いは、 諸国を二分する争いごとになっていた。
 その結果、延徳二年(1490)六角高頼(たかより)征伐に一応の戦功をあげていた 足利義材(よしき のち義尹、義稙)が将軍職についていた。

  追放された将軍義尹 細川高国、大内義興に擁される  
明応二年(1493)にふたたび義材は、管領細川政元により龍安寺に幽閉された。 
そして政元は足利政知(まさとも)の子義高(のち義澄)を擁立した。 
政元の手で将軍の地位を追われた義材は越中に逃れ、 守護代神保越前守を頼り諸国に御教書を発して将軍職を回復することを図っていた。
 義材は、明応七年(1498)には朝倉氏を頼り越前入りをしていたが思わしくなく、 翌八年(1499)十一月、近江の山門を頼って挙兵した。 
しかし、六角高頼の襲撃にあい、大敗した。
 義材は河内から周防に逃げ、義尹と改名して大内義興を頼った。 
その後、永正四年(1507)にいたって、細川政元が家臣により誅殺されたのを機会に、 細川高国の支持を得て、大内に擁立されるかたちで上洛を図った。 
その報に永正五年(1508)四月、将軍足利義澄や細川澄元は近江に逃れ、 義尹は将軍に再任された。 
義澄は巻き返しを図るが、現実は厳しく、再挙は不可能であった。 
結局、出家をして六角方伊庭(いば)氏の被官九里(くのり)氏を頼り、 水茎岡山城(すいけいおかやま 滋賀県近江八幡市)に居を構えた。
 甲賀山中氏を頼っていた細川澄元も再起をねらい 京の如意嶽(にょいがたけ)に陣を張ったが、 結局兵を交えず、永正六年(1509)六月、阿波国に退去し再起を期すことにした。  
翌永正七年(1510)将軍義尹は細川高国、大内義興に命じ、 義澄追討の兵を挙げて近江に侵攻し、水茎岡山城を包囲した。 
しかし、ここでは大敗を喫した。 これに乗じた義澄は永正八年(1511)三月、側室の子(のちの義晴)を 水茎岡山城に上げたが、頼りにしていた六角高頼自身も、 将軍義尹に傾きつつあったことを察し、播磨の赤松義村を頼った。
 そして七月、細川政賢を先鋒として赤松とともに、摂津へ進入した。  
細川高国はこれを防いだが、澄元は細川政賢、細川元常と連携し京都に迫った。

  将軍職奪回果たせず義澄没する  
八月十四日、すでに前将軍義澄は近江岡山城で没していたが、 その喪はふせられていた。 
澄元はこれを知らずに果敢に戦った。 
二日後の十六日、将軍義尹、細川高国、大内義興は支えきれず 都を離れて一時丹波国に逃げた。 
そして八月二十四日、将軍義尹らは反撃にでて、義澄を擁する近江勢と ついに船岡山で衝突することになったのである。 
結局、この戦いは主を失った細川澄元方が敗走するかたちで幕が引かれた。 
将軍義尹はふたたび京に戻った。
 船岡山の戦いは結果として、政権に安定をもたらすことにはならなかった。 
戦い後、将軍義尹は六角氏を降ろし九里を誅伐した。 
大内義興と細川高国の関係はこれを境に悪くなり、 永正十年(1513)には将軍義尹は近江に出奔したり帰京したりする有様となっている。 
細川澄元も細川高国と再度戦い勝利を収めている。 
合戦の行われた船岡山は、京都市北区にある高さ100メートルの丘である。 
平安時代には遊興の地として知られていたが、鎌倉時代以降は葬送の地として使用され、 源為義(ためよし)が処刑されたりもしている。 
ここが合戦の舞台となったのは京への入口にあたるためと考えられる。

  次回予告 近畿地方の合戦 天王寺の戦

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