戦国百科 合戦 野良田の戦

2007年9月30日日曜日

戦国百科

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近畿地方の合戦
野良田の戦 永禄三年(1560)
 浅井長政vs六角承禎 
<琵琶湖東岸に並ぶ両雄浅井氏と六角氏  
野良田の戦で決着をつけた浅井氏が江北を制す>

永禄三年(1560)に行われた野良田(のらだ)の合戦は、 滋賀県彦根市野良田での浅井(あざい)氏と六角氏による戦いである。
 当時、琵琶湖東岸では、南の六角定頼の跡を継いだ 承禎(じょうてい 義賢(よしかた)改め)と、北の浅井久政が衝突していた。 
三好長慶(ながよし)と本願寺との連携をとっていた浅井氏は近江を南下し、 両者の境界線となっていた佐和山から朝妻、米原山の諸城で六角氏と対峙した。
 天文二十一年(1552)七月以降、大勢は六角方に傾いていた。

  平和工作破棄に六角氏、決戦に踏み切る  
戦況を打開すべく浅井久政は、永禄二年(1559)正月、 十五歳になった長政(当時は賢政(かたまさ))に、 承禎の重臣平井定武(さだたけ)の子を妻として迎えた。
 平和工作を図ったのである。 
しかし、長政はこれを嫌い四月に離別して帰した。 
 それは六角氏との断絶を意味した。  
六角氏はこの行為に対して大いに憤慨し、 四月、承禎の兵は攻勢に出て佐和山城(彦根市)を包囲した。 
長政はこれに対抗すべく、肥田城(ひだ 彦根市)の高野瀬秀澄をはじめとして、 犬上郡の赤田氏や高宮氏などを調略し反旗をあげさせた。 
その報を聞いた承禎は永禄三年(1560)四月、肥田城の高野瀬秀澄を攻めた。
 しかし、守りが堅く城を抜くことができなかったため、水攻めを行った。
 まず城の周囲に堤を築き、愛知(えち)川、宇曽川の水を引き入れた。
 しかし、堤防が崩れ目的を果たすことはできなかった。
 八月、六角承禎は決着をつけるために江北に大軍を出した。 
そして野良田合戦に突入することになった。
 『江濃記』『浅井三代記』によれば、蒲生賢秀(がもうかたひで)、 永原永興(ながはらながおき)進藤賢盛(しかたもり)、 池田景雄を先陣とする二万五千の兵を率いた六角承禎軍は、 宇曽川を挟んで、百々(どど)、磯野、丁野(ようの)、赤尾、 上坂、今村、弓削(ゆげ)、本郷等六千の兵を率いる浅井久政・長政軍と対峙した。
 川の両岸でしびれをきらせた双方のうち、 まず浅井軍の将百々内蔵助(ないくらのすけ)が 川を渡って南進し、六角軍の蒲生に戦いを挑んだ。
 一進一退が続いた後、六角方の楢崎と田中が横合いから攻撃を加えたので、 浅井の将百々は総崩れとなり敗走した。 
百々自身も結解(けつげ)十郎兵衛に討たれて果てた。
 これに勢いを得た六角軍は、野良田表まで進んだ。 いったんは浅井方の敗色が濃厚となったが、 長政は安養寺三郎左衛門氏秀、今井掃部助氏直(かもんのすけうじなお)と謀り、 大野、安養寺、上坂、刑部(ぎょうぶ)をおとりにして、 勝ちに乗じた隙を長政の精鋭が承禎の本陣へ殺到することにした。 
この戦術は見事に功を奏し、 防戦一方となった六角側はついに敗走し壊滅状態となった。 

  六角氏は敗走、浅井氏三代の隆盛の幕開け  
結果は、浅井勢の勝利で終わった。 六角方の死者は九百四十。
 北軍の死者は七百余、川を埋めるほどであったらしい。  
浅井は敗走する六角方を追走せず凱旋した。 援軍の朝倉軍の出番はなく合戦は終わった。
 その後、浅井久政は長政に家督を譲った。
 長政と改名したのはこの時である。  
永禄四年(1561)三月、承禎とその子義治(よしはる)は この戦いの屈辱をはらそうと、長政が斎藤義龍との争いで、 美濃に出兵していた隙を狙い軍を進めた。 
六角軍はたちまち包囲した佐和山城を落としてしまう。
 しかし、いったんは落城させたものの、もちこたえることはできず、再び退却した。 
このことで江北における六角の威信は崩れていくことになる。

  次回予告 近畿地方の合戦 東大寺の戦

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