慶長元年~慶長2年

2008年7月26日土曜日

戦国150年ニュース

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応仁の乱~大坂夏の陣までのおよそ150年間を戦国時代と想定し
年代順に年表と記事を掲載。

重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
マークをつけ、記事にしています。

間違いがあったらごめんなさい。


1596年  慶長元年

天皇 後陽成  将軍 不在



1月16日   秀吉が毛利輝元・小早川隆景・吉川広家に淀川の堤防工事を命じる。

閏7月12日  豊後に大地震と大津波が起こり、瓜生島海没。

閏7月12日~13日
      畿内に大地震が発生し、伏見城、方広寺大仏殿が倒壊。

8月14日   伊達政宗が宿怨10ヶ条をあげて、甲斐の浅野長政と絶交する。

8月28日   イスパニア(スペイン)商船サン・フェリーペ号が土佐浦戸に漂着。

9月1日   秀吉が大坂城で明の講和使節を引見する。
        翌2日、第二次朝鮮出兵を決める。

12月19日  秀吉が三木パウロら宣教師・キリシタンを
        長崎で処刑させる(26聖人の殉教)

この年、イエズス会が日本人を奴隷として売買するポルトガル人に対して破門令をだす。




※畿内全域を大地震が襲う

12、13日にわたって畿内一帯に大地震が起こった。
とくに12日深夜に発生したマグニチュード7と推定される激震は、
3時間余も続いたといわれる。
この地震により、伏見では伏見城の天守閣をはじめ殿舎の多くが倒壊し、
女中衆や普請の人足など数百人の死者が出た。
また、京都では内裏の殿舎・築地や方広寺などが倒壊した。



※明帝の勅諭に秀吉が激怒

豊臣秀吉が、大坂城で明の講和使節を引見した。
明皇帝の勅諭には「秀吉を日本国王に封じる」とあるのみで、
秀吉の提示した明皇女降嫁・勘合復活・朝鮮南4道割譲などの
講和条件を無視していた。
怒った秀吉は第二次朝鮮出兵を決めた。




1597年  慶長2年

天皇 後陽成  将軍 不在



1月14日   加藤清正・小西行長が朝鮮へ渡海、
        第二次朝鮮出兵(慶長の役)はじまる。

3月24日   長宗我部元親が『長宗我部元親百箇条』を定める。

4月12日   秀吉が裏作の麦の年貢を収穫の三分の一とし、諸国に貯蔵。
        翌年8月、麦を年貢の対象とすることをやめる。

6月12日   小早川隆景没。

7月24日   ルソン(フィリピン)総督の使節が秀吉に黒象・銅器などを贈る。

8月17日   黒田長政が秀吉の命で朝鮮人捕虜などの鼻を切って送り、
        秀吉が鼻請取状をだす。

8月28日   足利義昭没。

12月22日  明・朝鮮連合軍が浅野幸長らのまもる蔚山城を包囲。
        加藤清正が蔚山城に入る。





※大坂城にルソン使節献上の象

ルソン使節が来日し、この日、豊臣秀吉の引見をうけた際に
黒象と銅器など16種類の品々を献上した。
秀吉は1591年に原田孫七朗をルソンに派遣して以来、
その後2回にわたって服属を要求する書簡を送っていた。
が、今回の秀吉からの返事は、それまでの服属要求から
キリスト教禁教へと一変した。



※流浪の将軍、義昭が死去

数日前から腫れものを病み床に臥していた
室町幕府15代将軍足利義昭が死去した。享年61。
義昭の遺体は旧臣10名ほどが供をして、
足利家菩提寺の等持院(京都市北区)に移された。
諸国の有力大名に御内書を発給して幕府再興を命ずるなど
打倒信長の執念を燃やし続けた生涯だった。








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