大坂の陣作戦研究(4)

2008年7月25日金曜日

戦国百科

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戦国総決算 大坂の陣

大坂の陣作戦研究(4)


<絶望的な状況のもと大坂方諸将はいかに戦ったか
 どのような作戦を立案実行する余地があったか>



南正面の決戦

大坂城はその南正面に弱点をもっており、また自然の障害を避け
大軍の行動に利便は地域を求めるとすれば、
それは城南地域以外にあり得なかった。
従って、六日、道明寺や八尾で勝利を得た東軍は、殆ど全力をあげて、
七日早朝、城南の岡山口および天王寺口に向かって殺到した。
もとより大坂方もそれは予想したところであり、
主力をあげてこの正面に決戦を求めざるを得なかった。

さて、この時期に大坂方の採った作戦はどのようであったろう。
もともと兵力は東軍の三分の一に過ぎず、
しかもすでに多くの勇将を失っており、
東軍の怒涛の如き攻勢には抗すべくもなかったはずである。

城方の配備は、天王寺口正面では茶臼山に真田隊、
四天王寺附近に大野治長・毛利隊、岡山口正面に大野治房隊をおき、
さらに七手組の諸隊が後詰の兵力となり、
また明石全登隊は戦況の変化に応じて東軍主力の側背を突くべく、
はるか後方の船場に位置した。
城方の意図するところは天王寺口・岡山口に東軍を引きつけ、
奇軍を放って家康本陣を突こうとするものであったと理解される。

この時代の合戦においては、主将の生死が全戦局に及ぼす影響は
決定的であったから、万一これに成功すれば、
あるいは大坂城の命脈を保ち得たかもしれない。

つまり家康討死ともなれば、有力大名のうち何人かが
大坂方へ寝返る可能性が多分にあったものとみられる。
しかし、それはまさしく僥倖を期待しただけのことであり、
彼我の戦力や戦機を合理的に計算したものではなかったろう。
まさに場当たりの作戦でしかなかった。

一方、東軍の作戦は冬の陣のそれと異なり、
家康以下、力押しに至短時間内に大坂方の戦力を粉砕し、
一挙に豊家打倒の目的を達成しようとするものであった。
家康は短期決戦での勝利に絶対の自信を持ち、
兵糧の準備さえ数日分で十分と指示した。

両軍の態勢た整い、開戦となったのは七日正午ごろであった。
激闘三時間余、天王寺口の真田勢は家康の本陣に突入して
これを攪乱するという奮戦ぶりを示したが、
家康その人を倒すには至らず、かえって幸村が討死してしまった。

明石勢も戦機を捉えるに至らず、市街地南端附近で交戦するにとどまった。
午後四時ごろになると、決戦に敗れた城方は城中へ退いたが、
東軍の付け入りを防げる手段を持たなかった。
秀頼は淀殿とともに翌朝自害し、豊家は滅亡するに至った。

大坂の陣は老練な家康の政略・謀略手段が水際立って鮮やかに泰功し、
豊家は人材の不足もあって、殆どなすところなく滅び去った。
しかし、そのような政略・謀略に最終的な決を与えたのはやはり合戦であり、
その意味で作戦的要素を無視することはできない。







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