文禄3年~文禄4年

2008年7月24日木曜日

戦国150年ニュース

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応仁の乱~大坂夏の陣までのおよそ150年間を戦国時代と想定し
年代順に年表と記事を掲載。

重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
マークをつけ、記事にしています。

間違いがあったらごめんなさい。


1594年  文禄3年

天皇 後陽成  将軍 不在


1月20日   明の沈惟敬と小西行長が秀吉の降表を偽作する。

2月27日   秀吉が関白豊臣秀次らと吉野で花見の宴を催す。

4月15日   前左大臣近衛信尹が薩摩へ流される。

6月10日   琉球王尚寧(しょうねい)が島津義久による
        再三の朝鮮出兵のための軍役負担を拒否する。

7月     前田利家が本願寺に金沢の末寺(金沢御坊)
        再興を許可し、制札をかかげる。

8月1日   伏見城が完成し、秀吉が入城する。

9月     徳川家康が伊奈忠次に命じて
        工事が続けられていた千住大橋が完成する。

この年、秀吉が検地条目を定め、全国的に検地を実施。




※沈惟敬と小西行長が秀吉の降伏書簡を偽作

沈惟敬(しんいけい)は小西行長と協議の上、
行長の家臣内藤如安を講和使節に仕立て、明皇帝のもとにむかわせた。
降表の内容は、日本が明の赤子(せきし 皇帝を親のように慕う子)となる
希望を朝鮮が握りつぶしたことが侵略の原因であり、
秀吉は日本国王に冊封されることを望んでいる、というものだった。
これらは、秀吉の考えと全く異なるもので、第2次朝鮮出兵の原因となる。



※太閤が近衛信尹を薩摩へ流す

肥前名護屋に下向した不羈奔放な性格の近衛信尹(このえのぶただ)は
戦場となっている朝鮮へ渡ろうとした。
このため秀吉は朝廷に信尹の配流を申し入れ、
後陽成天皇の勅勘をこうむり薩摩へ流された。
この事件を通じて、秀吉は摂関家をも厳罰に処すことができることを
天下に示し、太閤の権威の絶対性を強めたのである。




1595年  文禄4年

天皇 後陽成  将軍 不在


1月17日   豊臣秀吉が越後・佐渡の金山を上杉景勝の管掌に委ね、
        直江兼続を直接の任にあたらせる。

2月7日   蒲生氏郷没。子秀行が家督をつぐ。

5月5日   秀吉が判金小判座27人を集めて条規を下す。

6月3日   豊臣秀次の命で山科言経らが『謡本百番』を校注。

7月8日   秀吉が秀次を高野山に追放。7月15日秀次が自害。

7月20日   秀吉が前田利家らに子秀頼の後見役を命じる。

8月     石田三成が佐和山城に入城する。

この年、第1次朝鮮出兵の戦いで、朝鮮側に降伏する日本軍の兵士が続出する。





※高野山で豊臣秀次が切腹

謀反の疑いで高野山に追放されていた秀次が、
秀吉から切腹を命じられ、即日自害して果てた。享年28。
秀次は秀吉の姉ともの子で、養子となって秀吉から関白を譲られていたが、
文禄2年(1593)実子秀頼の誕生で、その地位は微妙なものになっていった。
8月2日には秀次の正妻菊亭氏以下妻子39人が京の三条河原っで斬殺、
邸宅も解体と、秀吉は秀次のすべてを抹消した。



※石田三成、佐和山城に入城

豊臣秀次切腹事件で重大な役割を果たした石田三成が、
秀次の遺領をついで佐和山城(彦根市)に入った。
三成は豊臣政権の中枢で活躍し諸大名の検地を指導したが、
領内の支配も厳格で耕作放棄・逃散を禁じる掟をだす。
こうして、三成は豊臣政権の五奉行としての地位を築いていく。


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